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同時代カルチャーをレビューするブログ

あのカーテンの向こう側———黒沢清と半透明の美学

 黒沢清は彼自身が最後のホラー映画と言った『回路』以降も、美術批評家の椹木野衣が「映画であるだけで充分怖い」と評するほどに、映画全体にホラー的要素を潜伏させたフィルモグラフィを築いてきた。黒沢自身はホラー映画の特質について、「監督自身の死に対する哲学が問われることになる」とあるインタビューで述べている。では黒沢の「死の哲学」とは何か。本稿はその意味について哲学的、あるいは因果律的な物語内から抽出する方法をとらず、あくまでも視覚的なイメージに現れる美学的な位相において、思考することを目的としている。結論を先まわりすれば、そのイメージとは「半透明」と呼ぶべきものである。まずは、初めにその前提となる「透明」とは何か問うてみよう。

・透明/半透明の美学
 鏡とは確かに映画的な装置である。鏡面における世界の反射がもたらす内省的状態と囚われ、そして脱出のイメージは、スクリーンに投射された映画そのものの構造を二重化し、鏡を見る人物=観客という入れ子状の映画的空間を生成する。ギリシャ神話においてナルキッソスが水面に美しき容貌を発見したように何かを偽りなく反射するという「透明性の神話」は登場人物を魅了し、観客を虜にする。このような「透明性の神話」を可能にするガラスというメディウムを通して、窓向うに透かし見る景色を厳密に捉える遠近法的な絵画形式が、近代的な主観-客観モデルを前提として生まれたことは周知の通りであろう。鏡-水面-(窓)ガラス。これらの「透明性の神話」を貫通する不可視のメディウムは、映画より以前に西洋美術の伝統的で支配的な思考-絵画モデルであった。
 美術史家の岡田温司はそのような近代絵画史の根底にある神話を脱構築する視座をその名の通り、『半透明の美学』という著書において提起している。岡田は再現表象的なルネサンスと超越論的表象的なモダニズムクレメント・グリーンバーグ)の対について、前者から後者への形式的なパラダイムシフトを認めながらも、ともに記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の幸福な結合を可能にするメディウムの透明性を志向する点で共通性を見出している。そして、極論と前置きした上で、「透明性とは、カメラ・オブスクラの視覚モデルが育んできた、西洋のいわばユートピアなのだ」とまで述べている。そのような強力な視覚モデルに対して、岡田は透明でも、あるいは不可視的な不透明でもない、「半透明性」を西洋美術史の圏域にありながら、周縁的な扱いをされてきた、灰色、埃、ヴェールといった、白と黒の中間色の領域において救い出そうとする。この「半透明の美学」の理路は、本稿の目的である映画監督、黒沢清の一貫した美学を明らかにすることに直結する。以降は、黒沢の具体的な作品に「半透明性」に関するモティーフを指摘し、その中にホラー映画における「死の哲学」を光明の元に指し示したいと思う。

a.カーテンとサイドウィンドウ

 黒澤明の「雨」が観客に反復的な情動を喚起したように、黒沢清の映画も情動を準備するいくつかの既視感に溢れている。その中でも、冒頭のシーンがやはり印象的である。精神科医に女性がカウンセリングを受ける室内(『CURE』)、風が舞い込む佐々木の自宅内(『トウキョウソナタ』)、ピアノレッスンを行うモノクロの室内(『岸辺の旅』)、無人の取り調べ室内(『クリーピー』)など多くの作品冒頭で、(時に開放された)窓ガラスの向こうの景色を半透明のカーテン越しに眺めるシーンが挿入されている。物語の始まりを告げるかのように、不明瞭な外部世界からの風が室内(映画内)に半ば犯罪の匂いを醸しつつ侵入していく。黒沢映画の魅力は観客がその始めからして、殺人現場に居合わせてしまった目撃者のように、本人の意図に関係なく、自動機械のように事件に巻き込まれていってしまうスリルにある。巻き込まれてしまっては最後、トビー・フーパー監督作『マングラー』のプレス機のように映画という死に至る緩やかな自動機械に食いつぶされてしまうのだ。その引き金が冒頭の半透明の(揺動する)カーテンである。黒沢映画にとって「風」もそれ自体で重要な意味をもつモティーフであるが、ここでは「半透明性」に絞って議論を進めよう。同じように「半透明性」を発見できるのがサイドウィンドウである。『CURE』や『リアル〜完全なる首長竜の日〜』に顕著に見られるのは自動車の運転シーンであるが、サイドウィンドウの向こう側に映る景色は「スクリーン・プロセス」によって撮影されているために、何かのイメージを想起させながらも、具体化には至らない。不明瞭な窓ガラスもまた半透明性を宿しているのだ。黒沢映画における「半透明」の境界面は、外部空間から遮断された閉鎖的な内部空間のインターフェイスとして描かれる。時にそれは窓際のカーテンに、あるいはサイドウィンドウに投影される。とすれば、解決すべき問いは、黒沢が外部と内部空間を遮断した上で、その境界面であるインターフェイスになぜ半透明を用いるのか、ということになるだろう。

 では、そのような内と外を「半透明性のメディウム」で取り結ぶ必然性はどこにあるのか。ここで、黒沢のホラーに対する考え方を再度確認しておこう。黒沢はホラー映画のジャンルを独自に「怪奇」「恐怖」「幻想」の三つに細分化する。それらを「死の世界」との関係性の観点から「怪奇」と「恐怖」が生と死の境界線を設けた上で、死の世界の到来に怯えて生きるのが「恐怖」であり、その間を行き来して生きるのが「怪奇」、対して、そもそも生と死の境界線を設けず、両者が融解し、混ざり合い生きるのが「幻想」としている。したがって、「怪奇」と「幻想」の区別は限りなく曖昧になるのだが、例えば、近作『岸辺の旅』や最新作『散歩する侵略者』では人間と本来空間/時間的に超越的な存在者=幽霊/宇宙人が遭遇し、互いの領分を侵食し合う世界観に貫かれていたように、黒沢映画の基本スタンスは「怪奇」と「幻想」に近い。ただし、人間と超越者が自由に互いの世界を行き来できるかといえば、そうではない。多くの場合、幽霊や宇宙人は行き来できるが、人間は生の世界の外に出ることはできない。そのような移動の非対称性があるのだ。したがって、黒沢映画をホラー映画と見立てるのなら、「怪奇」に近いが、しかし、移動には非対称性があるといった布置になるだろう。このような移動の非対称性はこう言い換えてもいい。人間の徹底した受動性(パトス)と。

 岡田は『半透明の美学』において、古代ギリシャにまで遡り、アリストテレスの哲学に「半透明」の源泉を見ている。従来「透明なもの」と訳されてきた「ディアファネース」という概念に、「半透明」あるいは「透明性のさまざまな度合い」という意味を汲み出す。すなわちアリストテレスによれば、「ディアファネース」とは無条件な意味で「それ自体としてみられる」=色とは異なり、それは「見えるものそれ自体なのではなく、光と見えるものとのあいだにあって、見えることを可能にしているもの」なのである。あるいは、アリストテレスにおける現実態と可能態を結ぶ「無媒介性の媒介」というパラドキシカルな言い方もできるだろう。

「対象は「感覚器官に直接接触して感覚を生み出すわけではなく、まず[……]中間の媒体が動かされ、そしてこののちゅ間の媒体によってそれぞれの感覚器官も動かされる」のである。このようにアリストテレスは、徹底して、視覚を「感覚する能力が何らかの作用を受けること(パスケイン)」として、すなわち一種の「パトス」としてとらえようとする」。(岡田温司『半透明の美学』岩波書店、2010年、35頁)

 言い換えれば、中間の媒体である「ディアファネース」とは純粋な受容性、受動的な感受性のことなのである。それは言うまでもなく、対象を把握し認知する能動性を担保する透明性を介した視覚モデルとは対照的である。つまり、対象に棲みつく埃や纏われるヴエールが意味する「半透明の美学」とは透明性が能動的に取り結んでいた内と外の関係における非対称性の逆転にこそあるのだ。岡田は半透明の持つ対象に対する作家主体の受動性の観点において、西洋美術史の古層からゲハルト・リヒター、ウジェーヌ・ドラクロワパウル・クレーフランシス・ベーコン、アルベルト・ジャコメッティ、ジョルジョ・モランディ、マルセル・デュシャンアナクロニスティックに再発掘する。このような芸術家の営為と美術史の文脈を踏まえたとき、黒沢清が「半透明」のモティーフを反復する意味がおのずと明らかになってくるだろう。つまり、前述の通り、黒沢のホラー映画観を貫く思考は関係性の非対称性にあったからである。一般的にそれは、映画の物語展開にしたがって登場人物同士の関係のうちに見出されるものであったのだが、黒沢映画の場合、冒頭の窓ガラスとカーテンや車のサイドウィンドウに見られるような、視覚的なイメージにおいて、すでにその「非対称性」は準備されていたのである。

b.黒沢的「半透明の美学」

 ただし、半透明であれば、すべてがそうであるわけではない。黒沢的な「半透明」の質について最後に考える必要があるだろう。ここで一つの美術作品を見てみたい。ダン・グラハム(1942-)というNY在住の現代アーティストの作品「Wood Grid Crossing Two-way Mirror」である。最近ではファッションブランド「セリーヌ」のファッションショーでのコラボで話題になったグラハムは、美術と建築を横断するようなハーフミラーを用いた作品、例えば、直島にある「平面によって二分割された円筒」もその典型であるが、通称「パヴィリオン彫刻」を1976年のヴィネツィア・ビエンナーレから継続的に制作している。

 ハーフミラーというまさに半鏡面的=半透明のメディウムによって、作品に近寄り、立ち入った鑑賞者=体験者は、思いもよらぬ位置に他者の顔を、あるいは自身の顔を発見することになる。理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオーはグラハムの作品に触れて、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスが中心的に扱った、ある主体と集団的な顔の対面=responsibility(応答可能性=責任)がもたらす、鑑賞者相互の関係性の契機を自身の提唱する「関係性の美学」の観点から批評している。ここではブリオーがやや楽天的に鑑賞者の能動性を前提としているようにも見えるが、より厳密には鑑賞者の経験は、自分自身が能動的に振舞おうとすればするほど、自己管理下をすり抜けた期待はずれの場所に「顔」を感受しなければならないという、能動的な行為によって、むしろ受動的に対象に出会うという特異なものなのである。黒沢映画における「半透明」との共通性も岡田が指摘したような、この「受動性」に見出すことができる。能動的な行為による受動的な世界との遭遇という経験には、役所広司のあらゆる運動を想起してもいいだろう。それゆえに、グラハムのハーフミラーのパヴィリオン彫刻と黒沢映画における各モティーフは共通して美学的な「半透明性」を持っていることは確かであろう。

 しかし、他方で、黒沢的な「半透明」の非対称性は、単に経験者である主体の現前的な受動性に留まるものではないこともまた確かである。というのも、黒沢映画において、主体とその外部、もっと単純に半透明によってインターフェイスされる内部と外部が互いに同じ時間軸を共有するグラハム作品のような現前的な関係性は成立していないからだ。例えば、それは多くの場合、生者と死者(幽霊)、あるいは『リアル』の場合はある人間の意識と無意識といった、二項を媒介している。『回路』についてのインタビューに答える、黒沢自身によれば、「幽霊というのは永遠の象徴かもしれない」、「幽霊を見た人間は死なないどころか永遠に生きるはめになる」。黒沢は死と対面した人間の恐怖とは、その有限的な生の時間に甘んじる人間を「永遠に固定する」という効果によって喚起されるというのだ。つまり、黒沢映画がグラハムのパヴィリオン彫刻と異なる点は、内と外の現前的ではない時間概念の対比による非対称性にあるのだ。一方で、半透明のインターフェイスの内側の人間は有限の時間に生きている。他方で、死者=幽霊は無限の時間(=非時間)に生きている。だからこそ、生者は生きたまま永続化されることに恐怖を覚えるのだ。生者と死者は、同居しながら、時間的な非対称の世界を生きている。

 これは黒沢の「生と死の関係」に対する思考そのものでもある。つまり、黒沢にとって「死」とは生きている私たちがそれ(=外部)に向かって、能動的に行為し続けることで、受動的にのみ感受可能な世界であり、また「有限」とは全く異なる時間概念である「無限」に区切られた世界なのである。『リアル』における、意識と無意識もそれぞれアリストテレスの現実態と可能態に重ね合わせれば、生と死同様に、そのインターフェイスに「半透明」のサイドウィンドウが挿入される必然性も説明できるだろう。すなわち、生と死、意識と無意識といった時間的な非対称性をもつ二項を媒介する、それ自体としては受動的な「半透明性」こそ、黒沢の「死の哲学」を支える美学なのである。

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(批評再生塾初出)