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雑感:黒沢清「旅のおわり世界のはじまり」

 

黒沢清の最新作を見てきた。舞台はウズベキスタン

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本作はその舞台を湖から山へ移していくことで物語が展開していく。

まず前半部では、徹頭徹尾、カメラクルーがそうするように水辺は人間の有機的な動きを封じ、モノのように不自由な体にしてしまう。そこでは人間はギクシャクした動きと人間関係しか取り結ぶことができない。こうしたことがカメラと水辺のショットの連なりから直感的に想像される。例えば、カメラクルーにモノのように扱われる前田敦子。移動式遊園地撮影にて前田敦子を追い込む拷問具のような回転遊具(行き過ぎた人間のモノ化が鑑賞者の笑いすら誘う)。湖での難航するロケ。地元の漁師との最悪な関係性。「海は自由の象徴なんてものではない。そこは危機的な場所である」と言わしめる前田敦子の彼氏が働く「東京湾」付近の石油コンビナートで大規模火災発生。


続いて、後半部では真の異文化交流がそうであるように山岳地帯は人間が感情を取り戻し、その人らしさを発揮できる、いわば自由の象徴として扱われる。例えば、クルー一同は前田のジャストアイデアで羊を「金で買い」山に返して自由の身へ。前田敦子は警官の尋問からウズベキスタン人を手段(金)ではなく人間として理解し始め、ラストには山の頂上あたりで自由の身となった羊を見下ろしつつ「愛の讃歌」の歌唱へと至る。

こうしてざっくりと展開を見てくると、ああなるほどこの映画は前田敦子がアイドルから歌手(女優)へと変身するための通過儀礼を文字通り示した作品なのかと合点したくなる。(し、実際にそうして論じている記事や感想も多い)

たしかに彼女は中盤でホテルの床でごろごろ転がったり、のたうち廻ったりして、多少の苦悩や疲労は見せている。が、僕はそうした苦しみを超えて前半と後半で何か決定的な変化が起きたかといえばそうではないと思う。そこがこの映画の怖いところだ。少なくとも前田敦子にははじめから、アイドルと歌手、あるいは「モノ」と人間の間には越えるべき山なんてなかったかのように映るのだ。そこには作中のあらゆるターニングポイントに対して、たとえそれがなかったとしても前田敦子なら成立してしまう、という空恐ろしさが潜んでいる。と言っても、これは批判ではない。この変わらない「ひらぺったさ」こそ、前田敦子の才能なのだと思っている。