よわいめ|ヨワイメ

同時代カルチャーをレビューするブログ

10月26日のいろいろ。

世田谷は遠い。グーグルマップを見る限り、うちからは吉祥寺と同じぐらいの距離にあるはずが、電車で行くと倍以上の時間がかかる。こころの距離は遠い。


世田谷文学館の「小松左京展―D計画―」に行った。

 

京王線には不慣れだ。向かいのホームにやってくる各停、快速、特急にタイミングよく乗り換えていく。中央線とは違って、複数の電車が異なるリズムを刻んで行き交って、ひとつの京王線という生態系を成している。みんながまったり付着しあっている中央線とはぜんぜん違う。乗客は別々のリズムのなかで、同じ京王線を生きている。ズレてるけど、シャキッとしている。

f:id:kouminami:20191026192051j:image

世田谷文学館に来るのは初めて。小松左京のSFと災害の関係がテーマの展示だ。小松への関心は東さん監修のアンソロジーを少し読んだり、映像化された作品を見たことはある程度だったけれど、椹木さんがツイートしていたように、昨今の台風被害の中で、あまりにタイムリーな展示に思えたので足を運んでみた。と、こんな感じで書き進めると丁寧な展示紹介になってしまいそうなので、乱暴に僕が興味を引かれたところだけ、記しておく。

1つはイタリア文学を専攻していて、卒論はピランデッロだったという事実だ。カタログで漫画家のヤマザキマリが書いてるように、なるほど、ピランデッロと言われると、小松の小説を動機付ける<力>の所在が分かるような気がしてくる。父親の会社の鉱山が大洪水に襲われて破綻に至り、親族が狂い出すピランデッロの半生は、父方の先祖が安政地震、母親が関東大震災、本人が神戸空襲、阪神淡路大震災を経験し、そして死の年に起きた東日本大震災に至るまで、災害/人災を乗り越えるためのヒストリカル・イフとしてのSF小説を膨大に書き続けた小松左京に重なるところがある。昔、佐藤優がある政治家の思想やイデオロギーを知りたければ、彼の学位論文を読めばいいと言っていて、妙に腑に落ちたことを思い出す。

2つはプロデューサーとしての側面だ。本展の最後には大阪万博国際花と緑の博覧会における小松の仕事が簡単に紹介されているが、単純に人徳にあふれているし、実践感覚もしっかりと持ち合わせていて、プロデューサーとしての手腕が素晴らしい。田中角栄にも一目置かれていたという、文学者の政治的活動という観点からすれば、ありえたかもしれない石原慎太郎、あるいは猪瀬太郎の姿のようにも感じた。ヒストリカル・イフ。でも、それはかつて可能であって、いまは不可能となってしまった回路なのである。2025年に大阪万博のことを思うとなおさら、そうした喪失感を強く感じる展示でもあった。

f:id:kouminami:20191026191959j:image

不勉強で知らなかったが、コレクション展のムットーニは「猫町」「蜘蛛の糸」「山月記」などの教訓的な寓話が小さなからくり舞台で闇の中で繰り広げられていて、よき発見となった。

f:id:kouminami:20191026203602j:image

https://www.youtube.com/watch?v=PDIBiMevIbc

今日まだ何も食べていないことに気づいて、吉祥寺で青椒肉絲焼きそばみたいなものを食べる。相変わらず、タピオカ屋は賑わっている。彼らは冬を越せるだろうか。山本浩貴『現代美術史』、柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン: 闇を歩く批評』を購入。土曜日の満員の映画館で「ジョーカー」の鑑賞二度目を見ようかと思ったが、どう考えてもお金を使いすぎなので、控える。文献も読まないと。帰宅。