有地慈個展『スーパー・プライベートⅢ-約束された街で-』評

以下、映像作品から見た展示感想です。

 本展ステイトメントの後半部では明確に①「震災を忘却する時間と娘が成長する時間」が重ねられていますが、前半部の記述を読むと、そこには別の時間、つまり新興宗教に母の誘いで入信したという②「宗教(母)を忘却する時間と自分が母になる時間」が重ねられていると思いました。この二つの時間の観点から、天井の映像を見てみると、まず震災からの時の経過を暗示する波の往還と戯れる娘の姿が見えます。それは一歩間違えば、震災という向こう側の時間(同時にこの時間は母の胎内に居た時間)に引き戻されてしまいそうな危うさと背中合わせの遊びです。対して、母が腕に装着したあひるのマペットはその娘に「魔法少女になって欲しい」と言い、繰り返し「契約」を要求します。これもまた別種の向こう側への勧誘に見えます。マペットの「契約」要求は当然のようにかつての母親から娘に対する新興宗教の勧誘を思わせ、今度はそれを作品という枠組みにおいて、作家本人が母親となり自らの娘に再演して見せています。娘は波と戯れるのと同じようにして「遊ぶだけならいいよ」とまたもや危うく向こう側への転覆を回避し続けます。いわば、娘は二つの向こう側への境界線を行ったり来たりしている、そのように映るのです。作家本人の経験を踏まえるならば、かつての自分=娘を母に変換させることで「自分が母になる時間」と「娘が成長する時間」を反転させようとしている極めてスリリングな試行のように見えるかもしれません。なぜなら、もし、この二つが反転してしまえば、=の左辺である「震災を忘却する時間」と「宗教(母)を忘却する時間」が逆の結びつきをすることになるからです。つまり、震災を忘却する時間は自分が母になる時間となり、宗教(母)を忘却する時間は娘が成長する時間になるということです。これはこれで一種の救いかもしれません。しかし実際にはこの反転は起きていません。娘は常に「遊ぶだけならいいよ」と言い続けるからです。反転、転覆する一歩手前で娘は遊び続けるのです。あるいは作家はそのように仕向けているのです。あまりにもスリリングです。さらにここに「契約」を迫るマペットというキャラとしての発言と時折、特に娘が波に接近する際に発せられる本人=母親の言葉が混ざりあう瞬間も考慮するならば、事態はさらに複雑になってくると思います。

 いずれにせよ、この数分間の映像は、震災を忘却する時間=娘が成長する時間と宗教(母)を忘却する時間=自分が母になる時間、この二つの異なるリズムを刻む時間が交差し、転覆する一歩手前の状況に娘を半強制的に留めおくというあまりに暴力的というよりか、そのような娘に対する親(母)の存在自体が孕む暴力性を理知的に再構築してみせた作品と言わざるをえません。

----------------------------------------------------------------------------------------------------- 

 そして、順路としては監視カメラ風の映像を見たあとに奥の部屋へと入ると、鑑賞者はある違和感を感じることになります。それはどれだけ娘さんと仲良く遊んでも、母-娘の関係性には全く入っていけないことから来る「気まずさ」に近い感覚です。あの空間は一見、母-娘の閉塞的な空間を他者に開いているようにみえますが、実際はむしろその関係をより強固にした形で鑑賞者に示すものとなっていると思います。つまり、鑑賞者は監視カメラに映っていた母-娘の時間に入りこむことはできず、ただ「遊ぶ」だけの「戯れる」態度を要請されるのです。(これは男性と女性とでは感じ方が異なるかもしれません。(それ自体は論点になるでしょう))。天井の映像に模して言えば、鑑賞者は母-娘という向こう側にも、壁に隔てられた第一室の監視カメラのような第三者という向こう側にも、自らの身を投げることができません。文字通り、映像では遊んでいた娘さんに今度は遊ばれるしかないのです。母性と言えば簡単な「特殊な空間」と冷徹な監視カメラの映像空間の狭間に必然的にたゆたう鑑賞者は、その境界線の意外にも思える明確さに戸惑いとともに眩暈を覚えて帰るはずです。もう一度、天井の映像を見て、ああ、あの子は私だ、とあらぬ錯覚を身に覚えながら。

 有地はステイトメント終盤でこのように問い掛けています。

「大きな事象がメディアを通して瞬時に伝播してゆく世界で、我々は、必要以上に口をつぐんではいないだろうか。(中略)今、あなたが、次の時代を生きるに足る、そしていつかは死にゆくに足る、どんな物語を持っているのかを教えて欲しい。」

 「大きな事象」は今ここの現実の向こう側へ私たちを誘い、「物語」とは向こう側に身を投げることで発生する非日常的な出来事の世界でしょう。しかし、本展でこのような物語を紡がれていたかと言えば、そうではないと思います。実際には映像の中のぷーちゃんは天使のようにその間をたゆたい、鑑賞者はそれとは別の向こう側との間に気まずくもたゆたい続けています。その態度はあまりにもリアリスティックです。鑑賞者はぷーちゃんと自分自身に要請される、そのあまりにも現実的な立ち振る舞いに驚嘆するのです。いわば、本展は二つの物語の引力の中心に鑑賞者もろとも立ち続けるためのロールプレイイングだったのではないでしょうか。私にとって世界を享受可能なものへと変換する装置が物語だとすれば、ぷーちゃんは自分なりの新しい物語を紡ぎだすのではなく、日々過剰に生産される誰かの物語に誘拐されないように、しかし無視もせず、たゆたい続けているように見えます。これは一つの技術です。だからこそ、そんなぷーちゃんの立ち振る舞いはこの現実に対して希望的でも絶望的でもない、きわめてリアリスティックな選択であったと思うのです。

 

(追記)天井の映像作品についてはもう一つ、母は腕の先だけ、娘は顔にモザイクがかけられていることの意味を考える必要があります。もちろん、真っ先に匿名性によるあらゆる母-娘の代入可能性を挙げることができますが、実際にはその可能性はモザイクの有無に関わらず開かれるものなので、今回の場合の意味の重心はそこにはないでしょう。では、何か。まず娘の場合は倫理的な自主規制にあります。それは二つに分別できます。一つ目は作品が撮影され、ネット上に流布されることで、娘の個人情報が流出する危険性に対しての自主規制です。二つ目は冒頭の時間のテーマに関連するものです。我が娘の成長を記録するためのホームムービー風の映像は震災から遠ざかりつづける忘却の時間を否応が無しに映し出すものにそのまま変化してしまいます。なぜなら、津波を想起させる浜辺というロケーション以上に、我が娘は「11.3」という特殊な時間的刻印を背負っていると母が捉えているからです。したがって、二つ目は震災の忘却を我が娘の成長の喜びによって表現せざるをえないことに対する自主規制です。では、母の場合はどうか。ちょうど映像の真下にある、複数のあひる=突起物が飛び出ている怪物?とセットで考えるならば、自主規制というよりも、その雑多さや不純さによる得体のしれなさの表現と言えると思います。