よわいめ|ヨワイメ

同時代カルチャーをレビューするブログ

旅行誌「ロカスト」とは何か?

きたる5月6日の文学フリーマーケットで旅行誌を頒布します!(文フリでは販売ではなく「頒布」という言葉を使うらしいです)

その名も「ロカスト」

英語でイナゴという意味です。 

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「ロカスト」は編集部+ゲストがある土地を群れとなって訪れて、そこで私たちが感じたことを元に協働して、その土地の面白さを発掘していく活動です。

ポケットサイズならではあのハンディ感、画家さんが想像力豊かに作成した特集地のマップ、私写真のような趣のある写真、そして総合デザインにもこだわりがあります。

で、僕が何をしたのかというと、今号では編集部の一員として旅行エッセイと座談会、巻末のコラム?を担当しました。

旅行エッセイは「地元を観光することってできる?」という素朴な疑問について書いています。なんでかというと、今回、ロカストの旅行で僕の地元である福生に訪れたからです。でも、待って!と。現にそこに住んでいる僕がその街を旅行し、観光するってそもそも可能なんでしょうか?という疑問が当然ですが、思い浮かんでくるわけです。その謎について書いたのが、僕のエッセイになっています。

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ちなみに「ロカスト」制作の順番を説明すると、まず編集部で集まって、旅行先を決めます、次に行く日程とメンバーを決定します。旅行します。今回は一泊二日で、立川、八王子、福生奥多摩に訪れました。その後、各々文を書いたり、ガイドを書いたりして、編集作業に入ります。最後にデザインさんの手に渡り、キュートな完成版が出来上がります。

次に座談会では、特集名にも入っている「東京」とそのキワについて考えました。東京とひとくくりに語られる場所のイメージの根元にある地形的、歴史的、文化的な不均衡さについて、6人で4時間ほど話し合った内容がめちゃくちゃに凝縮されて掲載されています。FAR WEST=遥かなる西を語るはずが、いやそのためには東京の「中景」にこそ着目すべきという話が個人的には面白く思いました。

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そして、巻末のコラムですが、これは連載企画「まろんお悩み相談室」の聞き手と編集を務めました。これは何かと言うと編集部員である渋革まろん氏の悩みをただひたすら聞いていくという誰得なのか?まろん得の企画で、今回は高円寺の銭湯とその前のお洒落な居酒屋バーを舞台に2時間ほどの悩み相談が繰り広げられました。結果から言うと、大変おもしろいです。「ロカスト」の中で一番笑えます。短いのでとにかく読んでください!

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そのほかに八王子、福生奥多摩に関わるコンテンツのガイドも書いているので、そちらもパラパラと興味あるところから見てみてください。

 そういえば、最近「ナイトクルージング」という全盲の人(加藤秀幸)が映画を撮るまでを追ったドキュメンタリーを見ました。その中で、加藤さんが自身の体を3Dスキャンして出力されたフィギュアを触って「おれってこんな腹出てるのか」と初めて自分の身体の全体像を把握した瞬間がありました。

ロカストの活動ってこれにすごく近いかもしれません。

加藤さんが視覚ではなく触覚を、そして個人制作ではなく集団制作を選択したように、「ロカスト」は、別々の人間の別々の知覚とその集団を運用して、ある街の別の全体像を立ち上げようとしているのだと思います。(個人の見解です)

とはいえ、市販の旅行誌はあらゆる面で考え抜かれすぎているので、もっと研究せねばと思う今日この頃でもあります。ちなみに「ナイトクルージング」はアップリンク渋谷で上映中です!(別作品の宣伝をしてしまっている...)

いずれにせよ、一番重要なことは!

「ロカスト」は5月6日の文フリで初公開されるということです!

どこで?

東京流通センター、ウ-37番のブースになります。

時間は?

11時〜17時まで頒布しております。

(僕は13時から店番していますー)

 会場にて、お待ちしております。

 

 

「ここは廃墟なんです。」(1日目)/ソウルアートツアー随想録(4/21-24)

4月21日11時50分。

 成田空港第3ターミナルから格安航空会社の機体に乗り込み、韓国ソウルの仁川国際空港へ。機内ではオルタナティブ・スペースの自活性やアートがマイノリティ・ポリティクスを扱うことの難しさについて話したりした。マイクロポップとは何であったのか、も話した気がする。何にせよ、そうこうしているうちに着陸態勢に入り、極めてスムーズに韓国へと初入国。パスポートのハンコが押されなくなっていて驚く。成田エクスプレスのようなソウル駅直通の特急列車に乗り駅へ向かう車窓を眺める。約一時間。今朝、東京駅から成田へと向かう高速バスで見た景色を逆回しで見ているようだった。田園風景が一瞬広がり、大きな川は干上がり、大企業の工場が立ち並び、遠くの山と山の間にはSFでしか見たことのないビル群が見えた。これからあのディストピアに向かうのかと思うと胸が高鳴った。

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 ソウル駅に到着するとすぐさまに今の建物に隣接する旧ソウル駅で他のツアー参加者と初対面し、展示を見て回った。いま思えば、見知らぬもの同士6〜7人が韓国で現地集合すること自体が狂気の沙汰にも思えるが、なぜかそれが自然に感じられた。日本統治下に建設された煉瓦造りのその建物は設計者の一人に辰野金吾の弟子が含まれていたためか、どこか東京駅を思わせる外観をしている。朝、東京駅を出発して東京駅にたどり着いたような不思議な感慨をもとに展示室へと足を踏み入れることになった。展示は韓国と北朝鮮の境界線に幅4kmに渡って存在するDMZ(非武装地帯)の過去と今と未来をテーマとしたもので、エントランスの目の前に設置されていた巨大なオブジェ---のちにDMZ沿いに置かれていた監視所(guard post)のようなものだとわかる---が印象に残った。かつて旧ソウル駅は北と南を結ぶターミナル駅であったようで、とするとこの展示は「ユートピア・ステーション」を仮構する試みであったように思えてくる。何れにしても、DMZに繁茂した自然の王国に夢現ユートピアを仮想する日本で開催されている展示とはリアリティが全く異なっている。

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 17時。ソウル初日の最後はソウル市立美術館へ。こちらも期せずして、日本統治下に裁判所として建てられたものが、その後韓国の大法院として使われ、95年には改修され現在に至るという。この解説だけが日本語で書かれていた。企画展で『デビット・ホックニー展』が開催中で野外にはインスタスポットが設置され微妙な賑わいをみせていた。中にはいるとスモールMOMAといった印象。全面ホワイトキューブでかつての裁判所の面影は一切残っていなかった。もちろん、美術館が美的な判定を下す機関である時点で、裁判所として十分機能しているとも言える。

 コレクション展は新収蔵品展がメインで1989年生まれの作家まで収蔵されており、その若さに驚いた。展示風景は流行りの?収蔵庫を再現したような網棚をそのまま展示する形式で、その網面に絵画が陳列されていた。これは旧ソウル駅の展示でも感じたことだが、全体的な印象として絵画はフィニッシュが非常におとなしい。ソウル市美に収蔵される作品の傾向なのか、若手作家全般の傾向なのかは判定できないが、最後の最後でコンセプトなりテーマへとのアクセスを意図的に回避するようにして、絵画と鑑賞者の間に靄か霧が掛かってしまう。直感的な書き方をすればこんな感じだろう。

 展示を見終え、図録や関連書籍を買おうとショップに向かうも、あるのはホックニー関連グッズが主で、ソウル市美コレクションの図録などは入手することができなかった。そもそも存在するのかもわからない。収蔵品展の解説を読むと、ナムジュンパイク・メモリアルなる建物があるらしく、野外を少し探すも見当たらず、断念。

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 18時20分。南大門の前に建つホテルにチェックインし、そのまま一同と合流し、韓国の渋谷と言われる明洞へ移動し、レートの良い両替所で2万円をウォンに両替し、夕食を探しつつ散策。

ここは全く渋谷ではない!

 渋谷を歩いたことがある人なら、きっとこう思うに違いない。渋谷の体感と明洞のそれはまったく異なっている。渋谷が提供する文化なり流行が人を呼び寄せる(た)のに対して、明洞はむしろ逆抜きに訪れる人間の欲望に合わせて隅々までが構築されている。あまりにもその眼差しが外部にむけられているのだ。カラコンの店を数軒目にしたが、その看板がメタフォリカルにいやもはや文字通りに?この現状分析を裏付けてくれるだろう。

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 居抜き物件がその眼差しの強さだけで生き残っているような感覚。屋台では目玉焼きの乗ったミニ・ホットケーキのようなものを食べ、夕飯は定番のタッカルビ店に入った。量、価格、サービス共に満足。京都の生きづらさ、岡倉天心の目論見、明日の作戦会議をした。ホテルに戻り、本日の感想ツイートをし、就寝。

 

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나리타 공항 제 3 터미널에서 저가 항공사의 기체를 타고 한국 서울 인천 국제 공항. 기내에서는 대안 공간의 자동 활성화와 예술이 소수 폴리 틱스를 취급의 어려움에 대해 이야기하기도했다. 마이크로 팝은 무엇 이었는가,도 말했다 같다. 무엇이든 주행하고있는 사이에 착륙 태세에 들어가 매우 원활하게 한국으로 첫 입국. 여권의 도장이 찍혀 없게하고 놀란다. 나리타 익스프레스와 같은 서울역 직행 특급 열차를 타고 역으로 향하는 차창을 바라본다. 약 한 시간. 오늘 아침 도쿄 역에서 나리타로 향하는 고속 버스에서 본 경치를 반대로 돌려서보고있는 것 같았다. 전원 풍경이 순간 퍼지고 큰 강은 干上がり 대기업의 공장이 들어서 먼 산과 산 사이에 SF에서 밖에 본 적이없는 빌딩이 보였다. 앞으로 그 디스토피아 가는가 생각하면 가슴이 크게 울려했다.

 

서울역에 도착하면 곧바로 지금의 건물에 인접한 구 서울역에서 다른 투어 참가자와 첫 대면 전시를 둘러 봤다. 지금 생각하면 낯선 것끼리 6 ~ 7 명이 한국에서 현지 집합하는 것 자체가 미친 짓에도 보이지만 왜 그것이 자연스럽게 느껴졌다. 전시는 한국과 북한의 경계에 폭 4km에 걸쳐 존재하는 DMZ (비무장 지대)의 과거와 현재와 미래를 테마로 한 것. 입구 앞에 설치되어 있던 거대한 오브제 --- 이후 DMZ를 따라 놓여 있었다 감시소 (guard post)와 같은 것인지 알 ---이 인상에 남았다. 일단 구 서울역은 북쪽과 남쪽을 연결하는 터미널 인 것 같고,하면이 전시는 '유토피아 스테이션'을 카 코우하는 시도였다 것처럼 생각된다. 어느쪽으로 든, DMZ에 무성 한 자연의 왕국에 비몽사몽 유토피아를 가상하는 일본에서 개최되는 전시회는 리얼리티가 전혀 다르다.

 

17. 서울 첫날의 마지막은 서울 시립 미술관, 이쪽도 우연히 일본 통치하에 법원으로 지어진 것이 이후 한국의 대법원으로 사용되어 95 년에 개수되어 현재에 이르기한다. 이 설명 만 일본어로 쓰여져 있었다. 기획전 "데이비드 홋쿠니 전 '이 개최 중으로 야외에는 인스 타 명소가 설치된 미묘한 활기를 보이고 있었다. 안에 들어 오면 작은 MOMA 같은 느낌. 전면 화이트 큐브에서 일단 법원의 모습은 전혀 남아 있지 않았다. 물론 미술관 미적 판정을 내릴 기관인 시점에서 법원으로 충분히 기능하고 있다고 할 수있다.

콜렉션 전 신 소장품 전을 메인으로 1989 년생 작가까지 소장되어 있으며, 그 젊음에 놀랐다. 전시 풍경은 유행? 수장고를 재현 한 것 같은 그물 선반을 그대로 전시하는 형식으로 그 웹 표면에 그림이 진열되어 있었다. 이것은 구 서울역 전시에서도 느낀 것이지만, 전체적인 인상으로 회화는 마무리가 매우 온순한. 서울 시미에 소장 된 작품의 경향인지, 젊은 작가 전반의 추세인지는 확인할 수 없지만 마지막 순간에 컨셉 나름 테마로의 접근을 의도적으로 회피하도록하여 그림과 감상자 사이에 안개 또는 안개가 걸려 버린다. 직관적 인 작성을하면 이런 느낌 일까.

전시를 見終え,도록과 관련 서적을 사려고 가게로 향한다도있는 것은 홋쿠니 관련 상품이 주로 서울 시미 컬렉션도록 등을 사용할 수 없었다. 원래 존재 하는가도 모른다. 소장품 전시 해설을 읽고, 백남준 기념하는 건물이있는 것 같고, 야외을 조금 찾아도 보이지 않고 포기.

 

18 20 . 남대문 앞에 위치한 호텔에 체크인하고 그대로 일동과 합류 해 한국의 시부야로 불리는 명동에 이동 속도의 좋은 환전소에서 2 만엔을 원화로하고 저녁 식사를 찾고하면서 산책 .

이곳은 전혀 시부야 아니다!

시부야를 걸었다 수있는 사람이라면 분명 이렇게 생각에 틀림 없다. 시부야의 체감과 명동의 그것은 전혀 다르다. 시부야가 제공하는 문화됩니다 유행이 사람을 초청 (했다) 반면, 명동 오히려 반대로 사정에 방문 인간의 욕망에 따라 구석 구석까지가 구축되어있다. 너무 그 눈빛이 외부로 향한되고있다. 카라 콘의 가게를 몇 개의 눈에했지만, 그 간판이 메타호리카루에 아니 더 이상 그대로? 이 현상 분석을 뒷받침 해주는 것이다.

居抜き 물건이 그 시선의 힘만으로 살아있는듯한 느낌. 포장 마차에서는 계란 후라이 탄 미니 팬케익 같은 것을 먹고 저녁은 클래식 한 닭 갈비 가게에 들어갔다. , 가격, 서비스 모두 만족. 교토의 살아 괴로움, 오카 쿠라 덴신의와 투자 내일의 작전 회의를했다. 호텔로 돌아와 오늘의 감상 트윗을하고 취침.

 

エモくはないソフィカル

現在、原美術館で開催中の「限局性激痛」も然り、ソフィの多くの作品は何かの始まりや終わりについての物語形式をとっている。さらに原美の場合は前回と同様に杉本博司の「海景」とともに展示されていることもあり、そこに「喪失」というテーマが前景化する。パラフレーズしてみよう。何かの始まりはそれ以前にはその始まり以降の経験が本人の中で喪失されていたことを発見する機会であり、そして、何かの終わりはそれ以降にはその終わり以前の経験が本人の中で喪失されることを発見する機会である。だから、ソフィは二つの喪失を撮った作家である、と。この喪失こそ、エモさのエネルギー源である。

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でも、ソフィはもう少しややこしい。問題は「始まりと終わり」自体が一体いつからなのかを決定できないことにある。ひとたび考え始めたら、始まりの始まりの始まりの、、、終わりの終わりの終わりの、、、といったように、すぐさまに無限後退が開始されてしまう。例えば、法的な手続きであれば、規定することは可能だろう。結婚なら婚約届けを提出したら始まりで、離婚届を提出したら終わりといったように。しかし、それは書面上の一応の法的な規定であって、実際の人間関係はそれらによっていきなり始まったり、終わったりはしない。いや、もっと一般的にはほとんどの人間関係は口約束すら交わさずに成立している。それゆえにソフィの作品では喪失を伴う始まりと終わりは決定的な威力を弱められてしまう。ソフィがエモくない理由はここにある。私たちは適切に喪失感を管理され、エモさを緩和されている。ソフィはだから、ロマンティックではない。