読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

山田正亮展(1)

東京国立近代美術館で開催中の山田正亮展。

全体の感想から言えば、ちょっとわざとらしくない?ってこと。ストライプから滴る絵具や円環構造や計画性。偉そうに言えば、一瞬語りうるように見えて、展覧会の後半に進めば進むほど、さまざまな無理を痛感してしまう。ましてや、そのような無理を作家自身に強いてしまう状況こそが批評、さらには日本美術界において未解決のまま残された課題なのであるという評論は虚しく響くばかりである。

しかし当然のことながら、個別には面白い発見があった。ひとまず、今回は初期静物画のみに的を絞る。初期の静物画はそのセザンヌ受容の方法において、確かにモランディに漸次している。ただし、モランディの初期作品には形態解体を目指すキュビスムの一端を指摘することができるのに対して、山田の静物画は解体ではなく、セザンヌ流の安定から零れ落ちるりんご、あるいは不安定化した土台としての机面がタブローに一致するかのような面性を発揮している。

1950年代半ばになると、その構図と筆触は融解に近い様相を呈していくことになる。全体の印象は限りなく後年の《Work E.F》における領域策定の越境に近づくことになるが、赤エイがその体をもって示唆するように、静物画が要請する正面性を過度に残存させるとともに、瓶や壺の形態はかろうじて他律的にではあるが保たれている。おそらく《Work E.F》に見られる境界策定と内部から外部への越境を容器的なものとして、考えれば(沢山遼)、その原初はすでに50年代半ばの静物画に見出せるのだ。

それにしても、山田の抽象への過程が静物画の自然な発展にあったことは興味深い。間違っても、それは画家自身が強調するような色彩の研究ではないのだ。静物画から抽象へ。キュビスムが基本的には静物画であったことはすぐさまに想起されるが、以前の投稿でも取り上げたように、キュビスムから抽象の直結はできない。問題はキュビスムモンドリアンの方法にではなく、静物画の発展のある段階に抽象の問題系を位置付けてみることである。

 

マリメッコと強制収容所

f:id:kouminami:20161221012221p:plain

Bunkamura マリメッコ展へ足を運ぶ。図版・デザインよりもファッションの実用性、それも体型、ユニセックスだけでなく、障害者まで誰もが着られるような意味での実用性が理念として提示されていて、そのあたりにきわめて北欧社会民主主義的、福祉思想が読み取れることがひとまずの発見であった。

しかし、それにしてもマリメッコのストライプが強制収容所のそれに限りなく近づいていることは興味深い。北欧の福祉思想が表だとすれば、その極限の裏には全体主義ホロコーストがあるのかもしれない。なぜ、誰もが着用可能な普遍的な服を追求するとなるとストライプ模様になってしまうのか。

f:id:kouminami:20161221011134j:plain

f:id:kouminami:20161221011011j:plain

マリメッコ強制収容所の衣服の異なりはカラーパターンの多様性にのみあり、かいま見えるある種の普遍思想は似通って見えてしまう。

 

Marimekko Notes: 20 Different Unikko Notecards and Envelopes

Marimekko Notes: 20 Different Unikko Notecards and Envelopes

 

 

 

2016年 鑑賞 映画

f:id:kouminami:20161219235554p:plain

一月
ブリッジオブスパイ
ザウォーク
サウルの息子
ブラックスキャンダル
ロイヤル・コンセルトヘボウ
二月
オデッセイ
スティーブジョブズ
三月
マネーショート
家族はつらいよ
四月
スポットライト
レヴェナント
アイアムアヒーロー
ズートピア
五月
64前編
海よりまだ深く
六月
植物図鑑
帰ってきたヒトラー
七月
シンゴジラ
君の名は
聲の形
八月

九月
怒り
レッドタートル
ハドソン川の奇跡

十月
インフェルノ
十一月
溺れるナイフ
この世界の片隅に×3
聖の青春
ミュージアム

過去作
めまい
シティオブゴッド
紀子の食卓
渋谷
戦艦ポチョムキン
幻の光
バクマン
青天の霹靂
私の男
アンダーグラウンド
A2
生きる
裏窓
イタリア旅行
そして父になる
うる星やつら
愛の渦
恋の罪
ナショナルギャラリー
ディオールと私
グラスホッパー
イニシエーションラブ
華麗なるギャッツビー
あん
スターウォーズ フォースの覚醒
マイマイ新子と千年の物語
現在 55本