擬的表現論(批評再生塾初出)

 横尾忠則は死を擬態する。横尾芸術を貫く、本来一回的な死の遅延作業は彼がまだ幼い頃、養子先の年老いた母に負ぶわれて、一命を取り留めた台風による洪水経験に由来している。それは彼の芸術的生そのものを規定しつづける、根源的な死を偽装し、シミュレーション(模造)する死生観であると書くのは批評家の浅田彰であるが、問題は死と擬態(偽装、模造)、あるいは「ギ」という音との直感的な接続である。その音は多くの場合、否定的なニュアンスを帯びて使われる。例えば、昨今の日本を騒がせる社会問題といえば、食品「偽装」、不倫「疑惑」等がいくつも想像される。同じように「擬」もまたまがいものや偽物、低俗などの否定的な意味合いで使われる。かつて、キッチュの滑稽さを誇張し、自己開示する姿勢をキャンプと呼んだのは批評家のスーザン・ソンタグであったが、アメリカ(ポップアート)を擬態するとともに、死を擬態する、横尾のポスターデザインが大衆を魅了してきた事実は、戦後日本文化全体がおかれた、あるねじれた状況の一端の表れであろう。美的であるより、擬的であること。ただし、筆者が主眼にするのは、アメリカと日本に引き裂かれた分裂症(対極主義)的状況ではない。そうではなく、むしろ浅田が横尾にみるような「擬的」表現論としての戦後、日本文化史の分析である。

 はじめに擬的なものを二つに分ける必要があるだろう。一つは対象としての擬的なもの。二つに作者自身が別のものに擬態する擬的なもの。まずは前者であるが、それが日本文化ないしは日本美術の核心だとしたら、その伝統はどこにまで遡ることができるだろうか。日本の風土論の名著とされる『風土の日本』の作者オギュスタン・ベルク桂離宮に代表される日本式庭園には、自然らしくあるために高度な作庭技術が用いられていることを指摘している。興味深いのは、日本の庭園は自然に対立し、支配さえする人工世界を創作するのではないが、かといって、自然と一体化するのでもなく、「自然らしいもの」を生成させる点である。つまり、こう言ってよければ、日本式庭園とは自然らしい庭園=擬・自然の創作物なのである。ここで京都学派、西田幾多郎の『善の研究』に高名な「主客未分」の主体像を想起してもよいが、「らしくあること」=擬的であることこそが、ベルクの指摘する日本式庭園の本質であることを踏まえれば、日本式庭園の場合は自然と庭園とが完全に一体化する未分の状態を追求しているのではないと理解することができる。すなわち、自然支配、あるいは自然との一体化でもない、自然への「擬態」こそ、日本式庭園のみならず、主客未分の意味を少なからず修正する、日本人の主体像と考えられるのだ。対象としての擬的なものに戻ろう。

 だとすれば、擬的な対象とは単なる写実主義自然主義ではありえないだろう。例えば、エミール・ゾラの客観的な観察をもとにした、自然主義文学の影響下にありながら、田山花袋『蒲団』がすでに柳田国男に批判されたように、作家の内面主義的な表現へと傾斜し、やがては私小説へと矮小化されてしまったこと。また、その柳田さえ、自然主義に徹したように思われる彼の民俗学的な民家研究の学問的実践、これもまた弟子の今和次郎によって、結局のところ柳田は「目に見えないもの」の透視を望んでいる点で、内面主義的な自然主義として批判とまではいかないが、手法の違いを指摘されることになった。では、その今和次郎関東大震災の焼け野原に立ち並ぶ、素人たちのバラックを装飾しながら、観察したところに始まった「考現学」的な視点は、「目に見えるもの」だけを対象とした自然主義の徹底なのか。おそらくそうではない。なぜなら、のちに赤瀬川原平の「路上観察」へのひきつがれる都市を遊歩する「考現学」の手法を、当時の川端康成はその「作家性」の高さにおいて評価しているからだ。(実際に、川端は今とともに考現学を始めた吉田謙吉にその即興的なスケッチの作家性の高さゆえに自身の小説の表紙を頼んだこともあった。)何より、考現学はそのはじまりから、擬的ものの観察から始まっていることに注目すべきである。今が考現学者として初めに目を向けた対象は藤森照信編の『考現学入門』の初めにあるように偶然に出会った、田舎のブリキ屋の作った『カリガリ博士の長持』以来有名になった表現派のガス灯、表現派の装飾のシンボル、ロココの装飾的な自由さを放っていた作品である。「万事がプリミティブで、また伝統を食べた口ばたのよごれもある」ものの、その西洋風に外形だけを整えたまさに擬的なガス・ランプ灯に感動を覚えたことを記録している。これは生活に即した土着的で機能主義的な家、道具への関心ではないだろう。今が東京美術学校の図案科出身であることと、この擬的なものへの感動は、彼のデザイン観を裏打ちされた感性かもしれない。いずれにせよ、そのテキストを書いた、翌年に関東大震災が起き、この擬的なものへの関心が、震災後のバラック調査へと移行することになったのだ。

 考現学の手法は、いまや社会学などの学問的な派生だけでなく、半ば趣味的なフォロワーを多く生み、雑誌等において「〇〇考現学」という特集は一般化しているが、よく知られる通り、そのフォロワーへの影響の大きさから言っても、1970年代から始められる赤瀬川原平の「路上観察」を外すことはできないだろう。震災後のゼロから現代に至る帝都東京が生まれる時期に考現学を始めた今に対して、赤瀬川は高度経済成長によって、新築されるビル群の間に、かつての機能を失ったがゆえに、都市の無意識を表出させる物件を写真に撮る路上観察を始めた。第一号の斜めから撮られた四谷の「純粋階段」の写真が有名である。機能という内実を喪失し、外形だけを留めた都市の装飾物としての擬的なもの=無用の長物「トマソン」探しは、爆発的に全国にフォロワーを生み出した。もちろん、「路上観察学会」やその他の活動は赤瀬川の超芸術から堕落した単なる趣味的なアマチュア文化であると批判の対象にもなりうる。しかし、今和次郎-赤瀬川原平の功績は擬的なものの観察と記録を通して、一個人の作家性というよりも、無数のアマチュア群を肯定的に生み出したことにある。また、都市の無意識を拾い集めた彼らの活動の場所をそのままネット空間に移し、キャラクターに宿る無意識を量的に収集・作品化するのが、2000年代に入ってからの一部の若手美術家の特徴として挙げられるだろう。その手前にあるかもしれない、美術評論家の千葉茂夫が「擬・建築」と名指した川俣正インスタレーションとの親和性を横目にしながら、川俣のように、一種の文化祭的空間を美術館内に生成させる、カオスラウンジらが主なモティーフとするアニメキャラクター、より正確にはキャラクター文化を支える二次創作、n次創作と呼ばれる、日本独自の消費=創作環境に現代における擬的なものへの美的な関心が見て取ることができるはずである。本家のオリジナルキャラクターから派生した無数のn次創作されたキャラクターは擬的表現そのものである一方で、ここではその受容環境に目を向けてみても、社会学者の濱野智史の指摘するニコニコ動画のコメントにおける「擬」似同期が生じている点が興味深い。つまり、そこでは対象としての擬的な表現を通して、擬的な共同体が生成されているのだ。

 

 次に、作者自身の擬態である。横尾が死に擬態するように、日本文化は擬態する。「日本景」シリーズは作者の大竹伸朗が、日本の地方都市をまわり、その風景の均一さとそれを観察する主体自体の風景化という実感に基づいて制作された作品群である。再び、オギュスタン・ベルクを参照すれば、彼のいう「実景」が参考になる。「実景」とは風景とそれに不可分であったはずの風土が切り離されてしまう状態を指しており、それは社会科学の知見によれば、自分自身の内部でも同様に起こり、自分自身すらも認識される風景と化してしまう状態である。そこではもはや外的な風景と自分自身との見分けはつかなくなってしまうのだ。また論文「擬態と伝説的精神」において「擬態」の最終目的は「環境への同化」であり、その周囲環境に同化することで、自らの感覚を喪失する「精神衰弱」患者との類似性を指摘したロジェ・カイヨワ風に言えば、それは自らの感覚を喪失した精神衰弱患者と類似した主体である。感覚の麻痺とともに、主体と客体という西洋近代的な二元論の間で宙吊りされてしまう主体。まさに「日本景」とはそのような実感に動機付けられている。このような作家の姿勢は美術評論家、椹木野衣が『日本・現代・美術』より一貫して主張する、「判断留保」し、「認識」する、悪い場所における作家像と正確に重なるものであるし、さらには文芸評論家、福嶋亮大が日本文学の基底に置く、旅人的視点とも共鳴するものである。また、このような還元主義的な主体の具体例として、『震美術論』では事前=事後を神話的想像力で作品化する作家と言い換えられている。付言すれば、そこで展開される事前と事後を内包する時間に生きることの再認とは社会学者の大澤真幸が「世界史の哲学」において、最後の審判の反復による、予定説と資本主義の親和性を事前と事後の二つの視点の両立にあると指摘することにぴったりと重なる。地球という下部構造の上に成立する上部構造としての政治経済という見立てを採用するならば、大澤は上部構造(資本主義)における事前=事前を、椹木は下部構造(地殻活動)における事前=事後を図らずも指摘していると言えるだろう。興味深くかつ、普遍的な人間の時間認識についての分析である。そして、椹木の場合は、原理的に地殻活動がもっとも先鋭的に露呈する空間としての日本列島の状況を、赤瀬川原平東松照明岡本太郎の対極主義や藤田嗣治村上隆スーパーフラットに仮託しており、『日本・現代・美術』では日本特殊論、『震美術論』では惑星特殊論と、ある場所に成立する美術を同一的に語ろうする、二つの意味(スーパーフラットな文化状況であること、さらには同じ惑星上に生きていること)での「同一性の哲学」が貫かれている。

 しかし、風景への同化や対象への擬態とは常に失敗に終わるものではないだろうか。例えば、ギヨーム・アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」に代表される、壁への瞬時の一体化によって追ってから逃れるという探偵小説はいくらでもあるが、その身体の壁との一体化のほとんどが第三者、探偵によって、見破られ、失敗に終わるところに小説としての面白みがある。というより、原理的にいって、擬態とは一時的なものであり、仮に永遠に擬態してしまえば、読者はそれを単なる壁と認識するしかなくなってしまう。環境への同化=自己の喪失という状況そのものを対象化することは、それが永遠のものでない限り、どこかで失敗に終わるはずなのである。その意味で「日本景」は現在という時間につよく拘束された作品であると言わざるをえないだろう。作家が風景ではなく、作家主体である限りにおいて、その擬態は一時的なものであり、その擬態が溶ける瞬間に訪れる失敗の効用こそ、風景を描写する主体としての作家に求められているのだ。失敗の機運を効用として捉えること。思い返せば、アンディ・ウォーホルが大衆的イメージとしての死を反復するのに対して、横尾忠則が自らの死を何度も擬態する理由は、常に失敗し続けるからであった。盟友の三島由紀夫のように一発で仕留める死とは対極的である。横尾を自らの死を反復する。大竹の「日本景」が失敗の機運を喪失しているとすれば、同じように風景へと擬態することで、自己を喪失し、死したかと思えば、その企みは失敗に終わり、自らの延命に成功してしまうことが横尾の死への擬態である。これは横尾特殊論ではないはずだが、そのような作品が美術の領域においてどれほど制作されただろうか。

 確かに、おそらく一つ目の対象としての擬的なものよりも、二つ目の作家自身の擬態による擬的なものの方が困難な表現である。しかし、その両者が、それぞれの対象と作家の間に独自な関係性を結ぶことによって、判断留保する主体=「同一性の哲学」をその失敗の効用の繰り返しのうちに差異化する、「擬的表現論」としての日本美術史が書かれうる隙が開かれるはずなのである。

 

 

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<参考文献>

オギュスタン・ベルク『風土の日本』篠田勝英訳、筑摩書房、1992年

今和次郎考現学入門』藤森照信編、筑摩書房、1983年

椹木野衣『震美術論』美術手帖出版社、2017年

椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年

・『豊島横尾館ハンドブック』福武財団、2014年

ポップなき時代にポップを探して

 

本書はポップなき時代のポップの意味について、美術の領域から迫っていくことを目的としている。

第1章 ネオポップとマイクロポップの時代————————————————————————————————————-

                  ——————–ポップなきポップ——————–

 かつてこの国には、ポップカルチャーが存在した。それは80年代に象徴される、人々がマスメディアを通じて、同じもの鑑賞し、同じものを消費し、同じ体験を欲望する、そのような同時代的な共通前提をもった大衆が存在した時代である。ポップカルチャーが一義的に「大衆的な文化」を意味するとすれば、1984年に出版された田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に描かれる、バブル景気に支えられた「ブランド」主義が機能した80年代こそ、その意味でのポップが最も高らかに成立した時期と言えるだろう。美術業界に目を向けてみても、バブル景気を背景とした地方のハコモノ美術館の建設ラッシュ、そして山梨県立美術館の「ミレー」購入、安田海上火災(現損保ジャパン)のゴッホ「ひまわり」の53億円での落札など一点豪華主義=ブランド主義の傾向は枚挙にいとまがない。すなわち、疑いなく「もはや戦後ではな」くなった、80年代とは、ポップカルチャーを可能にする大衆の時代であり、その最後の輝きを放った時代であったということができるだろう。

 あれから30数年、大衆をめぐる状況は様変わりした。田中が『なんとなく、』のあとがきで、「昭和54年度厚生行政年次報告書(昭和55年度版厚生白書)」を参照して、「少子高齢化」による消費社会を支えた若者文化の衰退をすでに予見していたこと、さらには、それから91年に始まるバブル経済の崩壊を経て、「ポップ」たるカルチャーは徐々にその姿を消すことになった。一億総中流の幻想は、失われた20年とも呼ばれる長引く平成不況が明らかにした経済格差の広がりによる中間層の分離とインターネット環境の全面化による文化的な断絶によって崩壊した。この経済的にも文化的にも分断化された大衆の状況は言い換えれば、社会学者の宮台真司が「島宇宙化」と呼ぶ、社会の個別化、クラスタ化を意味する。したがって、いまポップと呼ばれるものは、それが単なる80年代へのノスタルジーでないとしたら、ひとまず、それは島宇宙化を前提とした、大衆なきポップと呼ぶべきものである。

 大衆なきポップ、それは80年代のポップカルチャーでは指し示すことのできない何物かである。ポップなき時代のポップ。いま問われなければならないのは、2010年代、現在における「ポップ」の意味の自明性そのものである。第1章ではそのようなポップなきポップを前提として、まずは1980年代以降の90年代と2000年代において、主に美術の領域に現れた二つの「ポップ」(具体的には80年代アメリカのシミュレーショニズムの影響を受けた日本の「ネオポップ」、そして「マイクロポップ」)の意味を確認した上で、2010年代、3.11を経て現れた二つの「ポップ」なアート/カルチャーの条件について考察していく。

 

                   ——————–ポップの系譜——————–

 私たちは80年代という強力な磁場から離れた脱領域的なポップの意味を見出さなくてはならないのだが、おそらく、その上で最も深い射程の元にポップの意味を策定したのは、意外にも美術評論家の椹木野衣である。主著『日本・現代・美術』(1998年)において、アメリカによって占領された政治的無風状況(核の傘の)下に、国際的にも稀にみる経済、文化の両面で繁栄した場所=日本のことを敗戦という「暗い」動機に支配された「悪い場所」であると評した椹木は、ポップを単なる美術史上の一様式としてではなく、ポップ的な心性という抽象化した観点から分析することで、そこに戦後日本美術とポップの根深い共犯関係を浮かび上がらせようとする。『日本・現代・美術』の序盤部で提起した、反映のポップに対する還元のポップがそれにあたる。

 「彼らは、自分たちの生が拘束されている「いまここ」の成立する条件を提示することにおいてこそ、「ポップ」 たりえたのであったし、それはけっして「反映」などではなく、「還元」と呼ぶべき性質のものだった。(中略)バブル崩壊以後に現れた「還元」のポップは、そうした「暗い動機」にもとづくものである[i]

 椹木は1980年代のアメリカ美術から同時代的に伝播したシミュレーショニズムを文化的な前提におきながら、90年代にかけてデビューした60年代生まれの作家たち、具体的には村上隆、中原浩大、ヤノベケンジの三人をひとくくりに「ネオポップ」と名付け、彼らの作品を日本の特殊な前衛のもつ歴史的な発展ではない反復性を判断留保し、認識させる「還元のポップ」として評価している。高度資本主義、成熟した消費社会におけるイメージの氾濫をそのまま反映したアメリカ式のポップではなく、プレモダンな土壌の上で仮想のモダンゆえに空転する「前衛」の反復性とポストモダン(シミュレーショニズム)の奇妙な共存状態を白日のもとにさらすことで、戦後日本美術、さらには明治期までに遡る、近代なき日本の「近代」美術の滑稽さを露呈させるのだ。椹木はこのような「悪い場所」を脱することではなく、あくまでも「判断留保」し、「認識」することの重要性と困難さを繰り返し強調する。ネオポップとはその困難な認識に成功した稀有な例なのである。

 三人の作家たち、特に村上隆を擁護した理論的な後ろ盾がネオポップだとすれば、それから遅れて1995年、わかりやすく言えば、奈良美智擁護として提出されたのが、松井みどりによる「マイクロポップ」である。松井によれば、マイクロポップとは1995年から2006年の約10年間に出現し、実践された新しいタイプのポップである。その概念としては、哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「マイナー文学」定義と歴史学者ミシェル・ド・セルトーの「日常性の実践の戦術」理論に由来しているのが、詳しい意味については引用を確認しよう。

 マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作りだす勢を意味している。それは、主要な文化に対して「マイナー」(周縁的)な位置にいる人々の創造性である。(中略)彼等の物質的欠如や社会的に弱い立場を想像力の遊びによって埋め合わせようとする[ii]

2007年に水戸芸術館で開催された「マイクロポップの時代-夏への扉」展に際して提出された宣言文の一節である。本展には奈良美智を年長として、70年代生まれの作家たち、泉太郎、杉戸洋田中功起らが参加している。彼らに共通する特徴は「子供性、社会的な匿名性、経済力の欠如」という社会的に不利(マイナー)な生活条件にあるということだ。それは「大きな物語」に代わる芸術の基盤を、ささやかなものの寄せ集めによって仮設的に構築する、ポストモダン生存戦略である。また松井によれば、マイクロポップとはマイクロ・ポリティクスでもある。89年の冷戦構造の崩壊に平行して、同年にポンピドゥーセンターで、早くも開催された「大地の魔術師たち」展に象徴される第三世界と国内の社会的少数者の社会的包摂、一般にマルチカルチュラリズムと呼ばれる動向の一形式、つまり、マイノリティ・ポリティクスの美術的な言い換えがマイクロポップなのである。ここで、マイクロポップとはポストモダン状況における「世界」的同時的、ポリティカルなポップであるということができるだろう。しかし、同じように日本人作家の作品にもそのような政治性が感じ取れるかは疑問である。なぜなら、美術動向と政治が接近しては無関連化されるという事例が例えば、1941年瀧口修造と福沢一郎が政治犯としての検挙を免れるために、シュルレアリスム共産主義を無関連であるとした「シュルレアリスム事件」、またよく知られたところでは、赤瀬川原平の「千円札裁判」において弁護側に立った三人の美術評論家中原佑介針生一郎宮川淳の「政治とは切り離された、芸術は芸術である」という反芸術の前提すら、かなぐり捨てた弁護によって、自ら芸術と政治を無関連化してしまった先例があるからである。このような歴史を踏まえれば、日本のマイクロポップをむしろ政治性以外の側面から捉える可能性が浮上する。それは簡単にいえば、90年代のインターネット化と島宇宙化(宮台)との関連であるし、さらに宮台用語を援用すれば、95年に最後の盛り場、渋谷を失った若者たちの<地元化/お部屋族化>の開始がマイクロポップと重なる96年以降であることから、90年代に20代を過ごした「マイクロポップ」な作家たちをそのような若者文化の変遷の一形式として捉え直すことができるはずである。付け加えれば、2006年以降のツイッターニコニコ動画ピクシブなどのSNS、イラスト共有サイトの普及によって、「マイクロ」の意味するマイナーで私秘的な空間単位の変化が、その後のマイクロポップの展開に大きな影響を与えることになる。

                   ——————–2010年代の幕開け——————–

 ゼロ年代と呼ばれたこの十年、日本のアートは何も生み出さなかった」というカオスラウンジ宣言による全否定に幕開けした10年代は、すぐさまに、そのようなアート界内のポジション争いを全否定する、一つの困難な断絶に直面する。それは言うまでもなく、2011年3月11日、太平洋沿岸を震源地とする地震津波、そして原発問題を引き起こした東日本大震災である。震災後、芸術には人々を結びつけ、ともに共同体を再生することが第一義的に求められた。伊東豊雄の「みんなの家」や山崎亮の「コミュニティデザイン」など建築側からの素早い対応が象徴的である。それらはコミュニティ、リレーショナル、ソーシャリー・エンゲージドと形容される社会活動に限りなく近づいた芸術形式である。そのような状況のなかで、一見すれば、不真面目で趣味的なアニメキャラクターや二次創作に依拠する作家、作品群は数年の間、喪に服すこととなった。

 震災後に要請された社会的な芸術とは震災の当事者、マイノリティの人々を含めたすべての人を「包摂」可能にする(リレーショナルな)コミュニティアートであり、それは脱政治化したマイクロポップと言い換えることができる。政治学カール・シュミットを参照して、政治を友と敵を分けるものと簡単に定義するとすれば、脱政治的とは友と敵を分けないものと定義できる。互いの敵という対立項には目を向けず、連帯可能な部分においてのみ、友として友愛を構築すること。これが大雑把ではあるが、「脱政治」の意味するところである。もちろん、いわば友友理論とも呼べる脱政治的(リレーショナル)なアートに対して、真の民主主義を生み出すための「敵対性(ラクラウ、ムフ)の契機」(ビショップ)があらかじめ排された安定的な共同体を前提としてることへの批判などがすでに寄せられてはいる。しかし、友友理論の実践とマイクロポップの傾向がゼロ年代に第一回開催を迎えた三つの芸術祭、越後妻有トリエンナーレ(2000年)、横浜トリエンナーレ(2001年)、瀬戸内国際芸術祭(2009年)を先行モデルとして2010年代に爆発的にその数を増していく地方芸術祭にも敷衍可能なことを考えれば、その10年代へのきわめて高い適応性と社会的評価の高さを知ることができるだろう。実際に後世から見れば、2010年代の日本の美術状況は「震災からの復興と地方芸術祭の時代」と歴史化されることなるに違いない。

 ただし、問題はそれらはすべての人々に開かれた形式上のマイクロポップであり、その内実、内容の質は不問に付されていることにある。内実としてのネオポップやマイクロポップがいかに継承され、展開されたのか、という内的な検証はことごとく見過ごされている。またそれに耐えうる作品をこのような風潮の中で指摘することも難しいように思える。しかし、私たちはそろそろ、その形式ではなく、内容に対する批評を例えば、2016年「シンゴジラ」、「君の名は。」、「この世界の片隅に」の3本の映画がフィクションの側から震災を乗り越える想像力を提起したとすれば、2017年のアートはポップの名の下で、何を提起しているのか、過去との比較において吟味し、語るべき時期にきているのではないだろうか。

                  ——————–新しいポップの可能性——————–

 作品の枠組みや形式ではなく、内容と質において、90年代から2000年代のポップを独自に継承、展開させることで、10年代の新しいポップの想像力を照らす展覧会を紹介する。それは現代アーティストのChim↑Pom(チンポム)の「還元」的なネオポップにも見える「また明日も観てくれるかな?」(2016年10月)と「道が拓ける」(2017年7-8月)である。

 「また明日も観てくれるかな?」は、1964年の東京オリンピックの5か月前に建設され、そして次なる2020年の東京オリンピックに向かって解体されるまさに「スクラップ&ビルド」を象徴する新宿の歌舞伎町商店街振興組合のビル一棟を舞台として開催され、その内部空間はゴードン・マッタ・クラークの作風を思わせる吹き抜けを中心にして各階に、これまでのチンポムの作品をダイジェスト的にまとめた構成になっている。そこでは戦後復興期、1964年の東京オリンピックへ向かう過程と、あの震災からの復興期、「東京オリンピックまでに」というスローガンのもとに進められる東京の建設ラッシュを重ね合わせられている。戦後復興と高度経済成長を支えたビルとチンポム自身の作品史を物理的に解体し、一からビルドし直すというコンセプトと実践は正確に成功したように思えるが、その成功が、マスタープランなき東京のスクラップ&ビルド(増殖性)を自らの身(作品)を持って、再演し破壊することで、2020年に向かって反復される事態を「判断留保し、認識させること」に由来するだけであれば、それは単に「還元」的なネオポップの繰り返しに過ぎないことになってしまうだろう。ただし、それはビル解体後の風景が椹木の言う「ゼロ地点」か、あるいは村上隆の「スーパーフラット」な地平だとすれば、の話である。

 現実にチンポムが解体跡地に見たものは紛れもなく、コンクリートの破片であり、立ち込める砂埃であった。決してゼロにはならなかった地平、津波に襲われた被災地の風景が思い浮かぶ。ゼロから立ち上げる設計主義的なビルドでは、到底ありえない場所において、私たちは、1から、あるいは0.5、あるいは数字未満の存在と共にすでにありながら、それらを組み合わせ、ブリコラージュすることで、芸術の場を一時的に確保することができる。それはスクラップ&ビルドを「バラック」として読み替える想像力である。そして、このようにチンポムが自らの作品史とともに解体したビルの残骸からもう一度、バラック空間を作り上げた展覧会が二つ目の「道が拓ける」である。ランドマーク的に設置された80年から90年代の消費社会を象徴する渋谷パルコの電飾看板は確かに、ネオポップの残り香を漂わせるが、その基盤となる地下には、あのビルの残骸が埋まっている、つまりそれはバラック建築と呼ぶべきものなのである。(「バラックアウト」展を想起してもいい)しかし、ここでバラック・ポップなどというのは安易すぎるだろう。「Don’t Follow the Wind」を一つの補助線としよう。

 チンポム発案の帰宅困難区域内における国際美術展「Don’t Follow the Wind」は展示空間そのものには現在立ち入ることができないためにサテライト展をワタリウム美術館や今年の横浜トリエンナーレで開催している。これはランドアートの文脈において、ロバート・スミッソンのいう「サイト(=帰宅困難区域)」と「ノンサイト(=サテライト)」にあたる展示構成である。このサイト、ノンサイトの図式を先ほどの東京での二つの個展に援用するならば、「また明日も」では、歌舞伎町ビルは新宿のスクラップ&ビルドの歴史を負ったサイトであり、その内側はチンポムの自作品のサテライト展示(ノンサイト)である。「道を拓く」はこのサイトとノンサイトの重ね合わせの場を解体することで成立し、今度はそのバラック建築そのものが「また明日も」のサテライト展示(ノンサイト)になっている。つまり、整理すれば、チンポムが最新の個展で示したことは、かつてのサイトであった歌舞伎町のビルの破片によって構成されたキタコレビル(ノンサイト)のバラックにおいて、かつてのサイトのサテライト展(ノンサイト)を行うということである。バラック地点に立ち上がるノンサイトは、かつてあった場所、あるいは立ち入ることのできない場所がゼロ地点ではありえないことを私たちに想像させる。それはゼロ地点を認識させる「還元」的なネオポップの外側にむかう想像力であり、広島の空をピカッとさせた自らの作品をも乗り越えうる、震災後の一展開であった。

 ひとまず、チンポムの例から、2010年代のポップを可能にする想像力の一つの条件はバラックとノンサイトの二重性にあるとしておく。しかし、乗り越えるべきポップは「還元」的なネオポップだけではない。続いては、マイクロポップ的にも思われる藤城嘘「ダストポップ」展(2017年)を二重性の観点から分析することで、さらなるポップの可能性について考察したい。

 

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[i] 椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年、51頁

[ii] 松井みどりマイクロポップ宣言」2007年、(http://www.arttowermito.or.jp/natsutobira/natsutobiraj.html

 近代絵画を成立させる精神の根源にまで遡るとすれば、シャルル・ボードレールの定義するモデルニテを体現したエドゥアール・マネ、燕尾服の喪に近代を見たギュスターブ・クールベ、あるいはロココ期、貴族の遊び場に大衆扇動を喚起するアンソールの仮面の浮遊と礼拝的価値を失った絵画の宙吊り状態を重ね合わせたフランシス・デ・ゴヤ、主に18、19世紀あたりに、その誕生を策定することができるが、より根源的に、近代を彩る花の色や形にではなくその根元に、すなわち地層深くに何千年という超現実的な時間を要して生成される深成岩のような根源にまで、近代に囲われた私たちの目を向けるならば、そこに映る植物的な鉱物は14世紀イタリア、ジオット・ディ・ボンドーネのあの青い絵画ではないだろうか。

 

 ギリシア様式(新ビザンティン様式)を「解凍」し、踏襲したドォッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(1255頃-1319以前)のゴシックとビザンティン要素の異花受粉(H.W.ジャンソン)による新しい絵画空間の萌芽を開花させ、のちのルネサンスを準備した画家がジオット(1267頃-1337)である。鍛冶屋の息子として生まれたジオットが中世様式をまさに鍛冶が司る錬金術的な変性効果によって、近代絵画の根源に策定されうる謂れは1305年から1306年に制作した、パドヴァのアレーナ(スクロヴェーニ)礼拝堂内部の装飾絵画に求められる。ジオットはスクロヴェーニ家の礼拝所兼墓地として建てられた、ロマネスク様式の礼拝堂の簡素な外壁とは対比的な内壁の装飾絵画を全面担当している。37の場面から構成されるキリスト教絵画群は、その受胎告知と聖母という主題の伝統性の外枠の内に古代中世のイコン的な想像力は根本的に異なる三次元の絵画空間が造形されている。ルネサンス期レオン・バッティスタ・アルベルティやピエロ・デッラ・フランチェスカらによる数学的な線遠近法ではないものの、ここでジオットは天上の神と地上の信者を直結させるイコンの条件である超越と現実との距離の零度を初めて引き離し、双方の間にある自律した空間を打ち立てることに成功した。根源にして、絵画とは神と人間の間に設けられた中空空間であったのである。

 もちろん、現在の美術史研究が明らかにするように、ジオットは特異点ではありえない。おそらく初期においてはローマの画家たちのモニュメンタルな新ビザンティン様式古代ローマと初期キリスト教美術の壁面装飾の影響)、古代彫刻、そして何よりも作品全般にわたっては、イタリア・ゴシック彫刻の始祖ピサーノ一族を介した北方ゴシック美術の影響が最も重要である。建築的な枠組みではなく、人物の配置と重なりによる画面造形のモニュメンタルな彫塑性は例えば、1220年頃、ストラスブール大聖堂南袖廊扉口ティンパヌムの石造彫刻《聖母の死》の影響、さらに遡れば12世紀半ば過ぎ、ムーズ川流域地方に現れたニコラ・ド・ヴェルダンの《クロスターノイブルクの大祭壇飾壁》に見られる装飾的な文様から脱却した三次元的な衣の襞表現に端を発している。

 

 再び、スクロヴェーニ礼拝堂内部に目を向けてみれば、一連のフレスコ画における新しい空間把握の術は最高傑作《哀悼》一枚を見れば事足りるだろう。画中、十字架から降ろされたキリストに抱き添える聖母マリアと光背をつけた弟子たちの視線は、鑑賞者の目をも誘い、死せる救世主の顔に引き寄せられていく。こちらを背にして、キリストよりも前面に座る人物から幾重にも重ねられた人物のヴォリュームだけが画面に漂う親密な奥行空間を鑑賞者に知らせる。そして画面左にはその仮面のうちに無関心を隠しもつかもしれぬ、顔を隠したアノニマスな大衆すら描きこまれている。

 では、誰が真に哀悼を捧げているのか。ある人間の死の事実を確かめる医者の顔にさえ見えるマリアの表情は、何を喪失したのかを知りえないものの喪失の表現に近いだろう。フロイトがメランコリーと名指す「所有不可能なものの喪失感」を感知させる表情である。本来、所有不可能な(神の)息子=イエス・キリストの死とはそのような絶対的な否定性を介して所有されるという憂鬱、メランコリーであるはずである。すなわち、本作は多分に中世的な学識をもとにした近代の「喪の作業」の根源ともいうべき絵画なのである。

 メランコリックな人間劇を見せる前景が絵画の舞台上だとすれば、ジオットはその絶対的なフィクションを出現させる背景として「青」を全面展開した。聖なるものの出現と青を結びつけて、「青」の美術史を批評的に紡いだのは小林康夫であったが、思えば、彼はもう一度だけ、20世紀アルベルト・ジャコメッティの彫刻制作に対して「出現」という言葉を当てている。パウル・クレーの絵画理論における灰色の中心性(『造形思考』)に象徴的な20世紀美術史の一つの経脈(クレー、ジョルジョ・モランディ、フランシスコ・ベーコン)にジャコメッティも必然的に招き入れられるとすれば、今度は出現と結びつく色は灰色、埃に透かし見る半透明な美である。物と物の明確な輪郭をなしくずし、媒介作用そのもののうちに融解させていく灰色=埃の美学に対して、ジオットの青はむしろ、神聖な世界と人物劇あるいは鑑賞者の立つ現実空間を明確に切り分ける切断面であり、このような神と絵画と人間の領分を切り分ける作業こそ、イマニュエル・カントの『判断力批判』において、モダニズムが産声をあげた場所と言うことができるだろう。

 ヴェロニカの聖顔布に由来する神と人間を直結させるイコン的想像力とは根本的に異なるジオットの想像力はナルキッソスの覗き込んだ水面であり、鏡のモデルである。接触によって誕生するヴェロニカの布に対して、接触によって消滅するナルキッソスの水面は、神とも人間(鑑賞者)とも一定の距離を取ることで、視覚にのみ依拠した純粋な絵画形式となる。その点からいえば、古代から伝来する水面に映るかのように写実的な自然描写は、ナルキッソスの神話における表層のなぞりに過ぎないだろう。ジオットが真に革新的であるのは、水面・鏡モデルの根本的な理解によって、神と人間の間に中空空間を誕生させた近代的な想像力の発明にこそあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考文献>

・H・W・ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン『西洋美術の歴史』

 木村重信、藤田治彦訳、創元社、2001年

パウル・クレー『造形思考』上下巻、土方定一、菊盛英夫、坂崎乙郎訳、

 ちくま学芸文庫、2016年

小林康夫『青の美術史』ポーラ文化研究所、1999年

大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか』青土社、2005年