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「たかが世界の終わり」

グザヴィエ・ドラン「たかが世界の終わり」を観た。冒頭からいくつかのモティーフが短時間で現れては消えるを繰り返す。機内、帽子を被り、顔を隠しているルイの正体を暴こうとするかのように、子供の手は何度もいたずらを仕掛ける。タクシー内、ルイの背後に窓越しに見えるふたつの風船。ふたつでひとつのモティーフはその他にも現れては消える。深くかぶった、帽子を脱ぎ、ついに正体を明るみに出したのは12年ぶりに、自宅の重い扉を開いた時であった。待ち構える家族の一応の歓迎はすぐさまにその熱り立つ変わり者たちによって崩壊する。サリンジャーのグラース家のように、互いの素直な意思表明が衝突を生むと同時にその素直さは家族への逆説的な愛によって支えられている。むしろ互いの顔と顔が正面衝突を避けながら、顔面の真横を家族の意思表明が駆け抜けていく。この和解なしのどうにもならなさは爽快ですらある。端的に衝突を生むのはそこに実体があるからだ。つまり目に見える家族の存在である。対して、家族の中心にありながら、その不在を表明するのは死んだ父親である。彼はこの作品世界において、全くの不在である。父親の不在を家族の全員が共有しているが、ルイにだけに存在する不在がある。それはかつての実家であり、先週ガンで死んだ彼である。かつての実家は全くの不在であり、彼はルイの夢の中に不明瞭なイメージとして現れて、そして半透明のガラス窓から、陽の落ちた中濃度の世界へと出て行ってしまう。可視的な家族の顔、不透明な彼の顔、そして不可視の父親と実家。見えるものと見えないものの交差の内に、一瞬間、ルイが不透明な夢の中に微睡むのなら、家族の直裁な顔のクローズアップが、すぐさまにその目を覚ませてしまう。仕方がない、ルイは家族に告白し、安らぎ死にゆくことを、微笑、断念せざるをえない。


『たかが世界の終わり』本編映像

モランディ、岡田温司講演、兵庫県立美、メモ

 磨製石器のような上部の窪んだ白い板が示される。シャーラーという写真家が撮ったモランディのパレットである。わずかな濃淡を持つ白と縁部には赤と青がくすんでいる。限られた色彩とフレスコ画にも用いられる顔料の作り上げる芸術。ピカソよりも少し若いその画家は、変わり続けたピカソとは対照的に変わらない反復の中で、変わり続けた。それはドゥルーズの言うような差異と反復。眼前のモデルたちに向かいあう姿勢は決して抽象主義の現代作家ではない。メチエ的職人である。

 アトリエのテーブル上に残された無数の鉛筆線は瓶や壺の配置図であり、作品における厳密なる設計図、モデルたちへの舞台監督からの指示でもある。その中でも、最も愛されたモデルは、胸部に溝彫りのある瓶。裸のモデルは監督によって着色され、埃が堆積し、そして、画面の中で、演技稽古を受ける。その表情や身振りは自覚的に変化していく。寄り添ったり、そっぽ向いたり。配置が変わり、見る高さが変わり、影が変わり、色彩も、筆触も、塗りの厚みも、テクスチャーも変わっていく。綺麗に惹かれた輪郭線など、一本のない。演技に捧げられたわずかな差異の連続、それは一つの変奏。モランディは一度も、対象を類似的に再現しようとはしていない。反乱を起こしかねないモデルたちとの舞台稽古の連続。壺や瓶はそれぞれ個性を持ったキャラクターに見えてくる。ルネサンス期には人の影が人にかかるということは許されなかったが、カラバッジオがそれを打ち壊した。同じように、モランディもモデルの影がもう一人のモデルに降りかかっていく。どこまでが対象で、どこからが背景で、影はどこまでなのか。その境目は曖昧になっていく。おそらく光の調子を調整するために。影と光の融和から自生する曖昧さは版画にも見られる。

 光は白の変奏によって、表現される。マレーヴィッチ的な絵画の零度を宣言するための前衛的な白ではなく、ピエロやフラ・アンジェリコに見られる、白と白の描き分けからモランディは学んでいる。その主題や意味内容とは無関係に、造形的な価値を受け継ぎ、古典を敬愛した画家なのである。モランディ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、カラバッジオ。この三人を結ぶ美術史家がいる。造形的な評価によって、3人の画家をつないだ、ロベルト・ロンギ。古典から、特に初期ルネサンスからの伝統を造形的に受け継ぐ、モランディはモデルたちの配置を決め、彼の舞台を始める。しかし、すべてを意識下に置き、すべてをコントロールすることはできない。細かいタッチや色の厚みには、手の無意識での動き、言い換えれば、偶然性が必ず混入してしまう。この「脱自」体験を通して、彼の完璧なる舞台は私たちの眼前に示されるのだ。

 モランディの作品変遷は直線的に具象から抽象に向かったとは言えない。1930年代に画面に見られるざわめきはファシズム芸術の古典趣味に対抗するもので、1950年代の中心性はポロックを代表とするオールオーヴァーに対応するものであるというような解釈もあり得るが、モランディが同時代の美術動向に対して、闘争的であったかについては断定できないだろう。闘争的にではないにせよ、ボローニャという大学都市で、多くの美術史家批評家、芸術家と交流のあったモランディは、美術動向をよく把握していた。そのために、彼の静物画におけるオブジェの選択はかなり自覚的かつ計画的に行われていたのだろう。見た目の堅牢さと厳密なる設計によるモデルの配置からは建築のメタファーで説明されることもあるが、よく目を凝らせば、どんな作品も、常に、その細部において揺れ動いている。その不定形さはどこからくるのか。モランディが18歳の時に経験する父の突然の死は彼の芸術家人生に大きくのしかかっている。大いなるものの喪失は、若いモランディにパリ行きを断念させ、20世紀の他の前衛芸術家とはまるで異なった人生を歩ませることになった。喪失をする前に、今度は自ら、無駄なものを切り捨てる、喪の作業。

 

2016年映画ベスト5

2016年も早いもので、残り一週間ほどになってしまったので、このあたりで、今年の映画ベスト5をまとめてみる。ちなみに今年劇場で観た映画は以下の通り。

一月
ブリッジオブスパイ
ザ・ウォーク
サウルの息子
ブラックスキャンダル
ロイヤル・コンセルトヘボウ
二月
オデッセイ
スティーブジョブズ
三月
マネーショート
家族はつらいよ
四月
スポットライト
レヴェナント
アイアムアヒーロー
ズートピア
五月
64前編
海よりまだ深く
六月
植物図鑑
帰ってきたヒトラー
七月
シンゴジラ
君の名は
聲の形
八月

九月
怒り
レッドタートル
ハドソン川の奇跡

十月
インフェルノ
十一月
溺れるナイフ
この世界の片隅に×3
聖の青春
ミュージアム 

古都

ヒッチコックトリュフォー 

僕のベスト5は一般的な評価とあまり変わらないので、面白みにやや欠けるかもしれないが、個人的的には9.11に関する映画2本が、いみじくもドナルド・トランプ大勝利と同じ年に公開されたことには何か意味深いものを感じてしまう。テロリズム、シリア爆撃。アメリカ自身はアメリカにとっての悪夢をいかに乗り越えることができるのか、あるいはできないのか。それはアメリカという一枚岩の前提すら瓦解したいま、限りなく、不可能になってしまった。しかし、絶望の時代にこそ、映画は輝き、その本来の機能を取り戻し、作動し始めるはずである。そんな絶望に耐えうる2本を含めたベスト5を発表していきたい。

 

では、まず第5位から順に発表していきます。理由は至極簡単にだけ書いておきます。

 

第5位「シンゴジラ

ゴジラという歴史的シリーズの刷新を図ろうとした意欲作であり、「君の名は」と並ぶ今年を代表する作品。作家の欲望が露骨に演出・映像に表れている点を評価したい。(会話劇、テロップ、自衛隊

 

第4位「怒り」

シンゴジラ同様に作家の歪さが溢れ出ている点を評価したい。(沖縄問題)また豪華役者陣が遺憾なくその能力を発揮し、怪演といえる域に達していることも大いに加点の対象である。

 

第3位「ザ・ウォーク

3D・IMAX時代の傑作であるだけでなく、アメリカにとってのあの日を乗り越えるための一作。ただし「ハドソン川の奇跡」とは対照的に、乗り越える主体はアメリカの外部(パリ)に置かれている。それは自由の女神の歴史とも共鳴する設定であり、事実でもある。

 

第2位「ハドソン川の奇跡

今度はアメリカ人自身が、あの日の悪夢を乗り越えるための作品。それは過度なナショナリズムであろうか。いや、事実を基に淡々と物語は構成されている。あるパイロットの威信と誇りによってアメリカ再生?であり、ありえたかもしれないアメリカ像を印象付けることに成功している。その作りに隙は見当たらない。

 

栄えある第1位「この世界の片隅に

言わずもがな。片隅の二重性や伏線の応酬という物語的な上部構造もさることながら、もっと本質的にアニメーションという下部構造の特質を明瞭に示している点に驚愕する。アニメーションとは何か。実写とアニメーションの決定的差異をあぶり出す、まさにアニメーションの発明であり、真打の登場である。

 

投稿後、リップヴァンヴィンクルの花嫁を観て、ハドソン川の奇跡と同率二位としたい。