批評とは何か——「すれ違い」と「地図」から考える——(批評再生塾初出)

 批評再生塾は一度、死を迎えた批評を再度、生み出していくという目的を持ったスクールであるが、その死の意味はこうも考えられるだろう。「批評」は死を迎えたというよりも、様々な場所に徹底して遍在化したために、その総体が見えにくくなっているだけではないかと。文学、美術、演劇、音楽、あるいはインターネット上のサービス等々。それは、私たちの元に日夜降り注いではいるものの、その粒子が細かすぎるために、実態としてそれが何かを把握することの難しいものたちの遍在化である。とすれば、現代において遍在化した批評性を発見していく作業こそが、批評の総体を再生する試みとなるはずだ。本稿ではその上で「批評とは何か」を定義してみたい。

 なぜ批評の総体が見えづらくなったのか。一つの要因は1989年の冷戦崩壊後、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」に良くも悪くも象徴される、世界/社会の全体性を確保する視点の消滅と多文化主義への舵取りの変化による大きな物語の終焉といった政治/社会的なものであり、またそれと同時進行した批評対象となる芸術作品のジャンルそのものの融解である。モダニズム以降のジャンルの自明性が限りなく溶け合い、何が文学批評で、何が美術批評なのか定義しがたい状況になった。つまり、個別の作品分析を目的とした批評へと主眼がシフトしていったのである。その意味で、私たちはまず大枠ではマイクロな作品を対象とした批評の時代を生きている。少なくとも、そのはずである。

 では、そこで言われる批評とは何を意味しているのか。少し、問いを言い換えてみよう。もし、ある書物が批評だとすれば、批評の条件とは何か、と。例えば、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』は現代の主体像とは観光客的なものであることを提起したものであり、佐々木敦『新しい小説のために』は、現在の日本の小説の描写と人称の使用において、何が起きているのかを映画、絵画などの他ジャンルの形式との比較を通して、明らかにするものであった。あるいは國分功一郎『中動態の世界』は、哲学研究書ではあるが、言語学的な分析を介して、能動/受動ではない中動態的な主体のあり方を古代ギリシャまで遡り、再生させる試みであった。もし、この三冊が批評的なテキストとして読まれているとするならば、これらに共通する問題意識が、批評を定義する一つの視座になりうるはずだが、それは何であろうか。

 おそらく、それはわかりやすく「現代とは何か」という問いに応答することではないか。正確に言えば、現代における「主体」とは何かという問いと固く結びついてるのではないか。いま、現代という言葉を使ったが、それはいまの私が属する「同時代」と言い換えてもいいだろう。上記の三冊は、同時代における観光客、読者、患者といった主体像の変容とある種の処方箋を提出している。したがって、批評の条件とは「現代の主体像」についての思考と言えるかもしれない。もちろん、それは同時代の読者の主体性へとおのずと反射し、反映されていくものであり、さらに付け加えれば、この点は哲学や美術史の研究論文とは大きく異なる批評的な一つの評価軸でもあるだろう。

 しかしながら、それは容易に、現状の再認に陥りかねないことも事実である。同時代の人々に共有されている時代イメージ/主体イメージの輪郭をなぞり直すことで、読者にある安心感を与える装置になる可能性を大いに含んでいる。きわめて具体的にほとんどの自己啓発本はそのような構造を取っている。目指すべき隠れた自己イメージという分かりきったイメージを反復、強調し、サービスとして手を変え品を変え提供すること。それらは受容者/マーケティング分析の対象になるべきものであるが、これは批評文に限らず、現代性を問う、すべての芸術作品のもつ可能性であり危険性である。冒頭で述べた、遍在化した批評を感じさせる作品/書物の中でも、そのような傾向が見え隠れする。

 例えば、美術の領域をはるかに乗り越えてポピュラリティを国内外に問わず得ているウルトラテクノロジスト集団チームラボ。彼らの高度なテクノロジーに裏打ち、構築された余白のある空間において、複数の参加者が映像を通して見知らぬ他者との間にインタラクティビティを同時多発的に生成させ一時的な共同性を生み出す作品群は、多くの場合、デザイン性やプログラムの完成度の高さ以上に、もはや自然と化したテクノロジーの無意識的な媒介によって、集団的な人同士のつながりを生み出していく、言い換えれば、「関係性」構築の方法論の新しさにおいて評価されている。また、代表の猪子寿之自身も同様のことを様々なインタビューで答えていることも確かである。しかしながら、美術における「関係性」という観点からすれば、チームラボのそれはそれほど新しいモデルということはない。なぜなら、美術理論家クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」によるニコラ・ブリオー批判と同様の批判がそこでは適用できるからだ。

 どういうことか。ビショップはブリオーが90年代の「関係性の美学」と一括りにする作品群が観客の多様性を標榜しつつも、結局のところ、ギャラリーや美術館に足を運ぶ限りにおいて、価値を同定しあえる人同士の関係性であり、本来、民主主義に包含されていなければならない「敵対性」の契機が初めから排除されている構造を批判している。チームラボの作品も同様に参加する観客同士が互いに交換可能な身体性をフィクショナルにでさえ体験し、互いを同質性、同類性へと収斂していく構造を持っており、そこで「敵対性」を意識することはほとんどない。また、さらにビショップの評価する「敵対性」を孕んだ作品にも存在する「関係性」構築の問題が、チームラボに指摘できる。それは、同質性を仮想させる空間とともに、時間的な限定性にある。一言でいえば、いまここの参加者のみが関係性を結ぶことができる点である。同質性であれ、敵対性であれ、現在における関係性を前提としているのことは、チームラボ以前もそうであれ、以後もそうであると言える。つまり、チームラボの作品はテクノロジーの質ではなく、「関係性」においては、90年代から続く従来の「関係性の美学」の域を出ないという意味で、現状の再認なのである。テクノロジーの関与によって、関係性にいかに時差をもたらすことができるのか。ここが課題となるだろう。

 このように考えてみると、そもそも現状の再認ではない作品はどれほどあるだろうか、という疑問すら生まれてくるだろう。それほどに困難な取り組みではあるのは確かであるが、以下では少なくとも筆者からは、二つの全く異なる方法で現代における主体像を批評的に開示していると思われる作品について考えてみたい。

 一つ目は最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』である。筆者は以前、最果における色彩表現について分析したことがあるが、その詳細は省き、端的に本作のキーとなるモティーフを述べれば、それは「すれ違い」にある。SNS上の私たちは誰かと出会っている感覚を、最果はすれ違う時に瞬間的に流れる電流の微弱な衝撃を一瞬後から思い返すという経験として表現している。映画版ではすれ違いの経験は男女の恋愛に、そして舞台は渋谷と新宿に設定されている。都市におけるすれ違う視線、あるいは交差しあう斜めの眼差しは、絵画であれば、エドゥアール・マネが表象した、近代都市パリの人々の新しい振る舞いであり、顔を認識し、同定しあうことのない匿名的な大衆を生み出した、まさにヴァルター・ベンヤミンが「パサージュ」論で描き出した都市の情景にまずは祖型を求めることができるのだが、最果の場合は都市の上に成立した都会人の新しいコミュニケーション形式に対して、インターネットの上に生まれた新しいコミュニケーション形式、つまりSNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)での出会いの経験を的確に捉えている。ここ10年ほどの間で爆発的に普及したSNSのコミュニケーションにおける新しい主体像を描き出す、その詩は批評的であるがゆえに、「現代」詩であると言えるのだろう。

 二つ目はカオスラウンジ新芸術祭「150年の孤独」である。本作は福島県いわき市泉地区における廃仏毀釈後と東日本大震災後の展開を「復興の失敗」として二重化した上で、そこから新しい「寺」を建立し、生者と死者の切り離された関係を再度とり結ぶことをテーマとした市街劇/芸術祭である。鑑賞者は三つの会場で配布される手紙と地図をもとにして、徐々に開示される泉における廃仏毀釈以前、以後の寺社の消滅と神道式との無節操な折衷や墓場の移転を、直に目にしながら体験していく。つまり、本作の主眼は鑑賞者や作品との間の今ここの現在的な関係性ではなく、明治期の廃仏毀釈後150年の間、互いに関係性を喪失していた生者と死者との間の時間的な隔たり(=孤独)を持った関係性に向けられているのだ。最果と同様に端的に、本作のキーとなるモティーフを述べれば、それは「地図」である。水澤松次という泉における廃仏毀釈によって消えた寺院を調査した人物の手にしていた地図、そして今回のリサーチの元になった水澤の製作した地図、そして鑑賞者が3会場で受け取る地図。この三つが垂直的な時間軸に沿って同じ空間をマッピングしているのだ。

 ここで、地図からアビ・ヴァールブルクのアトラス「ムネモシュネ」を連想してもいいかもしれない。というのもキュレーションを務めた黒瀬陽平の著書『情報社会の情念』はヴァールブルクの「情念定型」という形態学的な概念から導出されているからである。「ムネモシュネ」はヴァールブルクがアナクロニスティックに様々な図像をコラージュ的に併置した、未完の大作であるが、全体を象徴するパネルAには上から星座図、地理図、家系図という三枚の地図が偶然にも垂直に並べられているのである。偶然か必然か「ムネモシュネ」の三枚の地図、「150年の孤独」の三枚の地図は符号しているようも思える。しかし、ここで一つ見落としている地図がある。それは第一会場から第二会場に向かう途中にあるSIDECOREの「WOOZY WIZARD」である。いびつな線の集合は地図以前、あるいは確定した地図を再設定するための準備とも見える未知なる地図である。三つの確定した地図の間に、未知の地図が挿入される。これが「150年の孤独」の地図的な構造である。確定した地図に記述されていることは、災害とそこからの復興の失敗という反復と忘却の断面的な記憶であり、その事実の再帰的な開示だけでは「悪い場所」という(仮の)現状の再認になってしまうだろう。そこに未知なる地図として、それは芸術家の空想にとどまらない作家/キュレーターの主体的な意志によって新しい「寺」を建立することで、現実的に現在という時間に変容を加えているのだ。このリサーチベースかつ大胆な試みは単なる反復と忘却の構造の再認を超えて、震災後の現代という枠組み、特に芸術祭における作家あるいはキュレーターの新しい主体像を提起していると言えるだろう。

 現代詩と現代美術とジャンルの違いは批評の定義とはさしたる関係を持たないだろう。冒頭で記述したように、現代詩か、現代美術かといったジャンルの自明性はすでに存在しないのだから。その前提の上で、まとめれば、上記で示した、最果タヒの「すれ違い」と「150年の孤独」の「地図」がそれぞれ提起していた新しい主体像の発見と提出こそ、批評が掴むべき、現代/同時代性であるはずだ。すなわち、現状の再認/追認ではなく、主体像の創出を介した「現代性の再設定」を批評の定義として、本稿の結論としたい。

あのカーテンの向こう側———黒沢清と半透明の美学(批評再生塾初出)

 黒沢清は彼自身が最後のホラー映画と言った『回路』以降も、美術批評家の椹木野衣が「映画であるだけで充分怖い」と評するほどに、映画全体にホラー的要素を潜伏させたフィルモグラフィを築いてきた。黒沢自身はホラー映画の特質について、「監督自身の死に対する哲学が問われることになる」とあるインタビューで述べている。では黒沢の「死の哲学」とは何か。本稿はその意味について哲学的、あるいは因果律的な物語内から抽出する方法をとらず、あくまでも視覚的なイメージに現れる美学的な位相において、思考することを目的としている。結論を先まわりすれば、そのイメージとは「半透明」と呼ぶべきものである。まずは、初めにその前提となる「透明」とは何か問うてみよう。

・透明/半透明の美学
 鏡とは確かに映画的な装置である。鏡面における世界の反射がもたらす内省的状態と囚われ、そして脱出のイメージは、スクリーンに投射された映画そのものの構造を二重化し、鏡を見る人物=観客という入れ子状の映画的空間を生成する。ギリシャ神話においてナルキッソスが水面に美しき容貌を発見したように何かを偽りなく反射するという「透明性の神話」は登場人物を魅了し、観客を虜にする。このような「透明性の神話」を可能にするガラスというメディウムを通して、窓向うに透かし見る景色を厳密に捉える遠近法的な絵画形式が、近代的な主観-客観モデルを前提として生まれたことは周知の通りであろう。鏡-水面-(窓)ガラス。これらの「透明性の神話」を貫通する不可視のメディウムは、映画より以前に西洋美術の伝統的で支配的な思考-絵画モデルであった。
 美術史家の岡田温司はそのような近代絵画史の根底にある神話を脱構築する視座をその名の通り、『半透明の美学』という著書において提起している。岡田は再現表象的なルネサンスと超越論的表象的なモダニズムクレメント・グリーンバーグ)の対について、前者から後者への形式的なパラダイムシフトを認めながらも、ともに記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の幸福な結合を可能にするメディウムの透明性を志向する点で共通性を見出している。そして、極論と前置きした上で、「透明性とは、カメラ・オブスクラの視覚モデルが育んできた、西洋のいわばユートピアなのだ」とまで述べている。そのような強力な視覚モデルに対して、岡田は透明でも、あるいは不可視的な不透明でもない、「半透明性」を西洋美術史の圏域にありながら、周縁的な扱いをされてきた、灰色、埃、ヴェールといった、白と黒の中間色の領域において救い出そうとする。この「半透明の美学」の理路は、本稿の目的である映画監督、黒沢清の一貫した美学を明らかにすることに直結する。以降は、黒沢の具体的な作品に「半透明性」に関するモティーフを指摘し、その中にホラー映画における「死の哲学」を光明の元に指し示したいと思う。

a.カーテンとサイドウィンドウ

 黒澤明の「雨」が観客に反復的な情動を喚起したように、黒沢清の映画も情動を準備するいくつかの既視感に溢れている。その中でも、冒頭のシーンがやはり印象的である。精神科医に女性がカウンセリングを受ける室内(『CURE』)、風が舞い込む佐々木の自宅内(『トウキョウソナタ』)、ピアノレッスンを行うモノクロの室内(『岸辺の旅』)、無人の取り調べ室内(『クリーピー』)など多くの作品冒頭で、(時に開放された)窓ガラスの向こうの景色を半透明のカーテン越しに眺めるシーンが挿入されている。物語の始まりを告げるかのように、不明瞭な外部世界からの風が室内(映画内)に半ば犯罪の匂いを醸しつつ侵入していく。黒沢映画の魅力は観客がその始めからして、殺人現場に居合わせてしまった目撃者のように、本人の意図に関係なく、自動機械のように事件に巻き込まれていってしまうスリルにある。巻き込まれてしまっては最後、トビー・フーパー監督作『マングラー』のプレス機のように映画という死に至る緩やかな自動機械に食いつぶされてしまうのだ。その引き金が冒頭の半透明の(揺動する)カーテンである。黒沢映画にとって「風」もそれ自体で重要な意味をもつモティーフであるが、ここでは「半透明性」に絞って議論を進めよう。同じように「半透明性」を発見できるのがサイドウィンドウである。『CURE』や『リアル〜完全なる首長竜の日〜』に顕著に見られるのは自動車の運転シーンであるが、サイドウィンドウの向こう側に映る景色は「スクリーン・プロセス」によって撮影されているために、何かのイメージを想起させながらも、具体化には至らない。不明瞭な窓ガラスもまた半透明性を宿しているのだ。黒沢映画における「半透明」の境界面は、外部空間から遮断された閉鎖的な内部空間のインターフェイスとして描かれる。時にそれは窓際のカーテンに、あるいはサイドウィンドウに投影される。とすれば、解決すべき問いは、黒沢が外部と内部空間を遮断した上で、その境界面であるインターフェイスになぜ半透明を用いるのか、ということになるだろう。

 では、そのような内と外を「半透明性のメディウム」で取り結ぶ必然性はどこにあるのか。ここで、黒沢のホラーに対する考え方を再度確認しておこう。黒沢はホラー映画のジャンルを独自に「怪奇」「恐怖」「幻想」の三つに細分化する。それらを「死の世界」との関係性の観点から「怪奇」と「恐怖」が生と死の境界線を設けた上で、死の世界の到来に怯えて生きるのが「恐怖」であり、その間を行き来して生きるのが「怪奇」、対して、そもそも生と死の境界線を設けず、両者が融解し、混ざり合い生きるのが「幻想」としている。したがって、「怪奇」と「幻想」の区別は限りなく曖昧になるのだが、例えば、近作『岸辺の旅』や最新作『散歩する侵略者』では人間と本来空間/時間的に超越的な存在者=幽霊/宇宙人が遭遇し、互いの領分を侵食し合う世界観に貫かれていたように、黒沢映画の基本スタンスは「怪奇」と「幻想」に近い。ただし、人間と超越者が自由に互いの世界を行き来できるかといえば、そうではない。多くの場合、幽霊や宇宙人は行き来できるが、人間は生の世界の外に出ることはできない。そのような移動の非対称性があるのだ。したがって、黒沢映画をホラー映画と見立てるのなら、「怪奇」に近いが、しかし、移動には非対称性があるといった布置になるだろう。このような移動の非対称性はこう言い換えてもいい。人間の徹底した受動性(パトス)と。

 岡田は『半透明の美学』において、古代ギリシャにまで遡り、アリストテレスの哲学に「半透明」の源泉を見ている。従来「透明なもの」と訳されてきた「ディアファネース」という概念に、「半透明」あるいは「透明性のさまざまな度合い」という意味を汲み出す。すなわちアリストテレスによれば、「ディアファネース」とは無条件な意味で「それ自体としてみられる」=色とは異なり、それは「見えるものそれ自体なのではなく、光と見えるものとのあいだにあって、見えることを可能にしているもの」なのである。あるいは、アリストテレスにおける現実態と可能態を結ぶ「無媒介性の媒介」というパラドキシカルな言い方もできるだろう。

「対象は「感覚器官に直接接触して感覚を生み出すわけではなく、まず[……]中間の媒体が動かされ、そしてこののちゅ間の媒体によってそれぞれの感覚器官も動かされる」のである。このようにアリストテレスは、徹底して、視覚を「感覚する能力が何らかの作用を受けること(パスケイン)」として、すなわち一種の「パトス」としてとらえようとする」。(岡田温司『半透明の美学』岩波書店、2010年、35頁)

 言い換えれば、中間の媒体である「ディアファネース」とは純粋な受容性、受動的な感受性のことなのである。それは言うまでもなく、対象を把握し認知する能動性を担保する透明性を介した視覚モデルとは対照的である。つまり、対象に棲みつく埃や纏われるヴエールが意味する「半透明の美学」とは透明性が能動的に取り結んでいた内と外の関係における非対称性の逆転にこそあるのだ。岡田は半透明の持つ対象に対する作家主体の受動性の観点において、西洋美術史の古層からゲハルト・リヒター、ウジェーヌ・ドラクロワパウル・クレーフランシス・ベーコン、アルベルト・ジャコメッティ、ジョルジョ・モランディ、マルセル・デュシャンアナクロニスティックに再発掘する。このような芸術家の営為と美術史の文脈を踏まえたとき、黒沢清が「半透明」のモティーフを反復する意味がおのずと明らかになってくるだろう。つまり、前述の通り、黒沢のホラー映画観を貫く思考は関係性の非対称性にあったからである。一般的にそれは、映画の物語展開にしたがって登場人物同士の関係のうちに見出されるものであったのだが、黒沢映画の場合、冒頭の窓ガラスとカーテンや車のサイドウィンドウに見られるような、視覚的なイメージにおいて、すでにその「非対称性」は準備されていたのである。

b.黒沢的「半透明の美学」

 ただし、半透明であれば、すべてがそうであるわけではない。黒沢的な「半透明」の質について最後に考える必要があるだろう。ここで一つの美術作品を見てみたい。ダン・グラハム(1942-)というNY在住の現代アーティストの作品「Wood Grid Crossing Two-way Mirror」である。最近ではファッションブランド「セリーヌ」のファッションショーでのコラボで話題になったグラハムは、美術と建築を横断するようなハーフミラーを用いた作品、例えば、直島にある「平面によって二分割された円筒」もその典型であるが、通称「パヴィリオン彫刻」を1976年のヴィネツィア・ビエンナーレから継続的に制作している。

 ハーフミラーというまさに半鏡面的=半透明のメディウムによって、作品に近寄り、立ち入った鑑賞者=体験者は、思いもよらぬ位置に他者の顔を、あるいは自身の顔を発見することになる。理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオーはグラハムの作品に触れて、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスが中心的に扱った、ある主体と集団的な顔の対面=responsibility(応答可能性=責任)がもたらす、鑑賞者相互の関係性の契機を自身の提唱する「関係性の美学」の観点から批評している。ここではブリオーがやや楽天的に鑑賞者の能動性を前提としているようにも見えるが、より厳密には鑑賞者の経験は、自分自身が能動的に振舞おうとすればするほど、自己管理下をすり抜けた期待はずれの場所に「顔」を感受しなければならないという、能動的な行為によって、むしろ受動的に対象に出会うという特異なものなのである。黒沢映画における「半透明」との共通性も岡田が指摘したような、この「受動性」に見出すことができる。能動的な行為による受動的な世界との遭遇という経験には、役所広司のあらゆる運動を想起してもいいだろう。それゆえに、グラハムのハーフミラーのパヴィリオン彫刻と黒沢映画における各モティーフは共通して美学的な「半透明性」を持っていることは確かであろう。

 しかし、他方で、黒沢的な「半透明」の非対称性は、単に経験者である主体の現前的な受動性に留まるものではないこともまた確かである。というのも、黒沢映画において、主体とその外部、もっと単純に半透明によってインターフェイスされる内部と外部が互いに同じ時間軸を共有するグラハム作品のような現前的な関係性は成立していないからだ。例えば、それは多くの場合、生者と死者(幽霊)、あるいは『リアル』の場合はある人間の意識と無意識といった、二項を媒介している。『回路』についてのインタビューに答える、黒沢自身によれば、「幽霊というのは永遠の象徴かもしれない」、「幽霊を見た人間は死なないどころか永遠に生きるはめになる」。黒沢は死と対面した人間の恐怖とは、その有限的な生の時間に甘んじる人間を「永遠に固定する」という効果によって喚起されるというのだ。つまり、黒沢映画がグラハムのパヴィリオン彫刻と異なる点は、内と外の現前的ではない時間概念の対比による非対称性にあるのだ。一方で、半透明のインターフェイスの内側の人間は有限の時間に生きている。他方で、死者=幽霊は無限の時間(=非時間)に生きている。だからこそ、生者は生きたまま永続化されることに恐怖を覚えるのだ。生者と死者は、同居しながら、時間的な非対称の世界を生きている。

 これは黒沢の「生と死の関係」に対する思考そのものでもある。つまり、黒沢にとって「死」とは生きている私たちがそれ(=外部)に向かって、能動的に行為し続けることで、受動的にのみ感受可能な世界であり、また「有限」とは全く異なる時間概念である「無限」に区切られた世界なのである。『リアル』における、意識と無意識もそれぞれアリストテレスの現実態と可能態に重ね合わせれば、生と死同様に、そのインターフェイスに「半透明」のサイドウィンドウが挿入される必然性も説明できるだろう。すなわち、生と死、意識と無意識といった時間的な非対称性をもつ二項を媒介する、それ自体としては受動的な「半透明性」こそ、黒沢の「死の哲学」を支える美学なのである。

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<ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校>グループC『完全なる仮説』展レビュー

ラディカルな仮説のために

 

 新芸術校一期弓指寛治、二期磯村暖。二人は、別々の仕方で、世界への鋭敏さを兼ね備えていた。思えば、当然のように、鑑賞者はどこかで、芸術作品に日常の平準化した世界認識に対する先制第一撃を期待している。仮説とはまさにそのための手段ではないだろうか。

 「完全なる仮説」は仮説である限りにおいて、事前的であるがゆえに、有名無実な構成物にもなるだろうし、反対に、それゆえにモラトリアムな留保の元に、ラディカルな自己/社会変革的な試みにもなるだろう。鋭敏さとは仮説の条件なのである。はっきり述べれば、本展作家のうち、前者は三上悠里、ヤウンクル関根、田辺結佳、鷲尾蓉子、後者はモリエミ、スズキナルヒロに当てはまる。以下では、その理由について述べていく。

 三上のクリアにデザイン化された憲法の質量をモービル、胡麻、水量によって相対的に示す中性的な展示、ヤウンクルのギリシャの砂浜に雪崩れ込む難民たちを思わせる、鳥取砂丘に集うポケモンGOユーザーの写真と難民の入国を防ぐ(と同時に鑑賞者の進行を阻む)かのように、銃を備えた黒ずくめのハンター、そして、その先に配置された田辺の家を失った人々の一時的な住処である仮設的なテント。これらの興味深い動線設計は、現憲法の自明性や難民、仮設住宅を連想させることで、図らずもそれぞれの政治性を浮上させているのだが、この政治性をどう受け止めるべきだろうか。残念ながら、3作家にはこの政治性を意図せざるものとして受け流す、ナイーブさ(鈍臭さ)を感じえない。

 もちろん、スマホ越し/レンズ越しに砂丘を眺めるバラバラの被写体と単一の作家であるヤウンクルの写真は両者ともにコミュニティへの参加のできなさを二重写しにするだろうし、熊本地震の経験から着想された田辺作品は、潔癖症的なエゴイズム=ミニマリズムの徹底が亀という不純物によってなし崩される展開によって、災害ユーピア/ミニマリズムのテンポラリーさ=仮設的であることの臨界線を仮説的に示している点で興味深い。欲を言えば、水槽に亀が入っていれば、地球に天変地異をもたらす超然的存在者として神話上に描かれる「亀」へと補助線を引くこともできただろう。その上でもっと「制作」への自覚とともに「展示」への自覚化を図りたい。

  鷲尾作品は新宿中村屋サロンの共同体の形に新芸術校(=カオスラウンジ)への情念の通底を批評的に接続するテキスト、絵画、著作、鷲尾自身による解説を含めたリサーチを前提とした演劇的なインスタレーションである。私は、その解説を聞きながら、一つの疑問を感じていた。「対象物と作家自身がどのような関係にあるのか。なぜ、作家は本来的に無関係であるはずの対象について語り、作品化する権利を持つのか、なぜ、あなたが?」。例えば、その応答を留保したままで、その権利を作家の「情念」等に求めることは以ての外ではないだろうか。なぜ、語りうるのか。その必然性を作品内に挿入する必要があるだろう。本作にはそれが端的に不十分であった。なお、作家本人による解説方法の工夫も求めたい。

  世界への鋭敏さ、それは言い換えれば、自作品が発する世界観に作家本人が自覚的であるという意味である。モリエミの場合には、その点、自覚的でないことが否めないものの、リンゴをモティーフとした文字、絵、写真、囲碁板上のオブジェは互いに鑑賞者の視線を誘導し、不断に生成変化するエロスを喚起する魅力を感じた。

 そして本展において、唯一、鋭敏な感覚=エロスを自覚し、展示空間に反映させた作家がスズキである。同じく自画像的である友杉宣大(グループA)の猫のようにキャラクター化された人物の強い黒線はベルナール・ビュッフェ、色彩対比は萬鉄五郎、叙情性はマルク・シャガールの夫婦像、静物画は形而上絵画やシュルレアリスムを思わせる。彼がステイトメントに記す「青春」からにじみ出るエロスの臭気は、短パンというモティーフに集約できるかもしれない。作家本人が下半身にまとった短パンと、絵画内、短パンを穿き、向かい合い煙草をふかす二人。短パンの気恥ずかしさと、運命の逆らえなさに感知する、二人の吐息が、今に伝わってくるほどの魅惑的な人物像=自画像である。

 しかし、それにしても、仮説でさえ、臆病な世界とは、なんと退屈だろうか。仮説とはもっとラディカルであるはずだ。芸術家には、現実に直面しながらも、それでもなおも「仮説」を立てつづけられる存在者でいてほしいと思う。