『草の上の朝食』論 – スキャンダラスな「喪の作業」として(批評再生塾初出)

 

「反復は、けっして飽きのこない、いとしい女房である。というのは、飽きるのは、新しいものにだけ飽きるのである。古いものには、けっして飽きがこない。そしてそのようなものが目のまえに、あってくれると、ひとは幸福になる」(セーレン・キルケゴール『反復』(1834年))

1:小説の不自由さ

 保坂和志は数々のエッセイの中で、客観的かつ科学的な言説と比較したうえで、極端に超科学的な(なんでもあり)でもない、中途半端な「現実の気分」を表明してしまう、小説的な言説の曖昧さを自らの欠点と認めており、同時にそれはほとんど小説という芸術表現のもつ一つの欠点であるようにも思われる。ここでクレメント・グリーンバーグ流のモダニズムが芸術ジャンルを規定する不自由さを芸術表現へと再帰的に転換する要請であったことを想起すれば、保坂の小説の不自由さはそのまま小説の自由さへと転換されるのではないだろうか。無意識のうちに、私たちはその転換の瞬間を見逃しているのかもしれない。おそらく、モダニズム的な転換はすでに初期作品に見え隠れしている。例えば、それは『草の上の朝食』においてである。だが、まずは具体的な作例を分析するより前に、冒頭に示した「科学的」と「超科学的」という言葉の保坂流の理解をまずは確認しておく必要があるだろう。

 保坂は光の速度や神経細胞の働きなどの、人間の生の感覚では知りえない情報を提供するまでに発達した学問領域が現代科学であると度々述べている。現代科学とは人間の五感では知りえない情報を理解可能にする学問、言説の一種であるとした上で保坂は、科学の発展による世界認識の変化を記述する二つの方法を示している。1つ目は生の感覚をもとに、内なる想像力を駆動させて記述すること、2つ目は生の感覚では知りえない、世界(自然)に対して、「自分自身の想像力を別の形に組み直」し記述することである。保坂は特に後者ついて記述しようとするが、それより先の議論については幾つかの補助線を提起するに留まっている。対して、超科学の方は端的に科学的な実証を一切無視したフィクショナルなもの、具体的にはファンタジーや幻想小説に見られる、なんでもありな言説を指していると考えられる。科学と超科学、保坂はそのいずれにも属さない「現実の気分」を捉える言説を小説の領域として策定しようとする。

 小説家の立場から科学的な説明原理とは距離を置きながら、その対極にある「なんでもあり」にも足を踏み入れず、その中域に靄のように漂う、生活空間とそこに住まう人々の「現実の気分」を、小説の説明原理として据えること。まさにそれを主題として扱った小説が第15回野間文芸新人賞を受賞した『草の上の朝食』である。以下では本作を通して、「家」という物理的な存在と宙ぶらりんな関係を結ぶ登場人物と猫の織りなす「現実の気分」描写について考察していく。

2:『草の上の朝食』

 グリーンバーグモダニズムの起源に制定したエドゥアール・マネの代表作《草上の昼食》(1863年)へのオマージュを感じさせるタイトルはすでに、本作がモダニズムの理論における小説の不自由から自由への転換とそれに伴うスキャンダルを予言していることはまず察知しておくべきである。

 『草の上の朝食』は前作『プレーンソング』と同様に、小説の中心を貫く物語は設定されておらず、複数人の若者が銘々に、ただし、ある一室で半共同生活を送る日々が、推敲を感じさせないほどに自然な会話を通して、叙述されている。前作からの変化としては、主人公「ぼく」と工藤さんとの恋愛未満の恋愛模様を挙げることができるが、小説全体からすれば、それもわずかな差異に過ぎない。むしろ、注目すべきは保坂の小説に、よく指摘される通り、彼らの共同生活を可能にしている「家」という空間である。本作においても抜かりなく、登場人物を集合させ離散させる共通の場として、日常空間を意味する「家」が設定されている。世代を経たとしても、常に誰かにとって日常を営む場であった空間。そのような日常空間を舞台として、立ち現れる雰囲気を保坂は「現実の気分」と表現するのである。

 「現実の気分」を生成する場である家=日常空間における領域策定あるいは、その科学的や超科学的な領域を逃れる脱領域的性質についての先行言説はアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンに求めることができる。彼は『世界制作の方法』(1975年)の中で、世界を説明する科学的理論は同時に複数成立可能であるがゆえに、世界制作には複数のヴァージョンが存在することを指摘し、それは日常世界においては藝術作品のヴァージョンとして立ち現れることを強調している。このような複数性を示すヴァージョンは唯一の実在を必然的に否定する非実在論に近接するのだが、グッドマンはその立場から、実在とは無関係に完結した世界観の水平的な敷衍によって、生み出される無数の可能世界論を、それもまた別種の実在論であるとして批判している。彼の図式に従えば、実在論と可能世界論は同構造をもつ理論であることが明らかとなり、これは科学と超科学を同時に退ける保坂の小説論に適用できる可能性を示唆している。つまり保坂の日常空間における「現実の気分」描写はグッドマンの日常世界における例えば、藝術作品の複数のヴァリエーションに重なるというわけだ。しかし、 では、保坂の「現実の気分」描写に相当する複数のヴァージョンの同時存在とは実際には、どのような状態を意味するのだろうか。複数のヴァージョンとは言い直せば、それぞれが弁証法的により高次の一貫性へと統合されることなく、お互いの内的な一貫性をそのまま保持させて存在する状態のことである。つまり、それぞれがそれぞれの論理に従って、同じ作動を繰り返すという離散的なモデルである。おそらく、このモデルは『草の上の朝食』においては、登場人物の立ち振る舞いとして、つまり、彼らの個々の存在を物語における複数のヴァリエーションとして見ることを可能にしている。というよりも、登場人物たちは新しい出会いによって成長、発展するのではなく、それぞれが一つのヴァリエーションに過ぎないことこそが重要なのである。それは『草の上の朝食』が前作『プレーンソング』の続編ではなく、一つのヴァリエーションに過ぎない趣向をもっていることとも重なるだろう。

 一つのヴァリエーションに過ぎない登場人物たちの存在は、保坂が本作を書く動機としてはっきりと述べている「反復」と少なからず関連している。それは日常と非日常を区別する「反復」性である。ここで言われる保坂の「反復」とは、前述のヴァリエーションという観点から見てみると、共同生活が毎日、反復される、変わらない日常の気分という大雑把な意味でなく、より具体的に登場人物たちの内的な一貫性に基づいた、繰り返しの行為のことであることが判明するはずである。ぼくがぼくのままであり続けるように、島田もアキラも工藤さんも互いに交わりつつ、終始互いに変わらないままであり続けるという反復である。しかし、そうだとすれば、「現実の気分」とも言い換え可能な、繰り返しの行為、「反復」は結局のところ、保坂の小説にどのような効果をもたらしているのだろうか、最後に問うてみたい。

3:喪の作業

 保坂がそれぞれの登場人物の変わらなさを「反復」という言葉によって抽象化するのであれば、日常とは反復のことであるという、ありきたりな文句よりも、そこに「喪の作業」との類似を指摘するべきであろう。なぜなら、毎朝、仏壇に線香をあげ手を合わせる、あるいは一年の決まった日に墓参りをするといった、失った身近な人間を弔う行為、喪の作業は古くから反復を伴って行われてきたからだ。『草の上の朝食』に限らず、保坂の小説には個人の生き死にの問題、もっと直裁に言えば、死の影が感じられないことが指摘されてきたが、驚くべきことに、保坂の小説の中心に位置する日常の「反復」こそ、死を想え、「喪」を象徴していたのではないだろうか。それは「ぼく」と工藤さんとの間に繰り返されるセックスであっても同様である。彼らのセックスには死の欲動に従う、臨死体験と言えるほどのエクスタシーを伴ってはいない。そうではなく、その繰り返されるセックス描写は反復のうちに示される他者の死を思う、喪の作業と理解するほうがより自然なのである。

 『草の上の朝食』には《草上の昼食》を描いたマネをモデルニテの体現者としたシャルル・ボードレールが近代の英雄性をみた燕尾服の暗示する「喪」すら遠く反響しているかもしれない。近代(モデルニテ)が燕尾服に身を包んだ「喪」の時代であるならば、それに対応する近代芸術の条件も必然的に「喪」を対象化する作業へと導かれていかざるをえない。例えば、ギュスターヴ・クールベの《オルナンの埋葬》(1849年)は明確に喪を対象化し、無名の人間の死を英雄化しているために、近代が近代たる由縁を示している。翻って、『草の上の朝食』も同様に「喪」を暗示しているために、やや強引にではあるが、近代芸術の抱える不自由な規定を引き受けていると言えるだろう。しかしながら、両者を比較すると、マネやクールベが画面に描かれている対象そのものによって、近代の「喪」を表現したのに対して、保坂は対象ではなく「反復」という方法によって、死の影と「喪」の作業を私たちに想起させる点に異なりが指摘できる。おそらく、『草の上の朝食』が《草上の昼食》ほどスキャンダラスに映らない理由もそのような「喪」の表現が対象から「反復」という方法への移行によって、スキャンダル自体の性質が変容したためだと考えられる。すなわち、目に見える対象から、目に見えない方法へである。

 保坂は近代を規定する一様相、「喪」を対象化しながらも、人々の変わらない「反復」という方法を通して、その規定による不自由さを軽やかに、忍び込ませることに成功する。つまり、科学的でも超科学的でもない、自由なる小説の領域にのみ立ち現れる、家という日常空間における「現実の気分」とは言い換えれば、「反復」という方法によって演出されたスキャンダラスな「喪の作業」であったのである。

Practice for a Revolution-擬態する坂口恭平(批評再生塾初出)

 坂口恭平と坂口真理夫(マリオ)は別人だろうか。坂口真理夫とは母親によって却下された第二案、もう一人の坂口恭平の名である。躁鬱病である坂口の経験する躁と鬱が切り離せないように、恭平と真理夫も切り離すことができない。予告された殺人よろしく、坂口の小説はこの二人の坂口の邂逅に始まると初めに述べておこう。なぜなら、坂口は近作において坂口恭平本人ではなく、限りなく坂口恭平に近接した他なるもの(真理夫)に自らを変身-「擬態」-させることで、可能なる小説の自由を体現しつつあるからだ。

 フランツ・カフカ『城』の男が測量士であったことは坂口の一側面を照らし出す。坂口の著作には卒業論文を写真集にした『0円ハウス』、『隅田川のエジソン』、デッサン集『思考都市』、そして『ズームイン、服!』に連なるような観察者の視点で書かれたルポルタージュの系譜がある。現代の考現学者として、坂口は路上生活者たちの家の素材と組成を克明に記録していく。一つ一つの雑草に名前があるように、坂口は匿名化された社会の組成に言葉という測りを当てていくのだ。測量士としての坂口恭平。今思えば、3.11後、躁状態に振れた坂口が打ち出した「新政府内閣総理大臣」という肩書きは現政府という「城」を徹底的に分析し、観察するための測量士の別名であったのかもしれない。

 坂口の出世作『独立国家のつくりかた』は震災以後の日本社会論であるとともに新国家設立という熊本での実践的な活動と合わせてみれば、坂口の測量士から(社会)建築家への変貌を感じさせる。嘘か誠か。坂口は新政府設立によって、現実の政府の虚構性を巧妙につき、隠されていたもう一つの現実を明らかにしようとした。大江健三郎の著作がすべて小説として読むことができるように、『独立国家のつくりかた』や坂口の膨大な日記集も現実とも虚構とも判別しがたい一種の小説として読むこともできるだろう。坂口は『現実脱出論』で、ものがたり=小説について以下のように述べている。「僕にとって「ものがたり」とは、あらすじを持った作り話なのではなく、感覚器官という扉の向こうにしっかりと存在している空間を、現実のもとにおびき寄せる行為のことを指している[i]」五感の内側に隠されていた空間を現実におびき寄せる行為こそがものがたりなのである。以下では、このようなものがたりとして書かれた坂口の小説について論じるつもりであるが、ここでは初めに書かれた三作と続く三作をそれぞれ初期三部作と中期三部作と区別したい。なぜなら、初期三作と続く三作は内容、文体のどちらの点においても明らかに趣を異にするからである。具体的に初期三部作とは『幻年時代』、『徘徊タクシー』、『家族の哲学』、中期三部作とは『現実宿り』、『けものになること』、『しみ』のことを指している。結論を先回りすれば、初期と中期の間を跳躍する、ある変化を根拠にして坂口における小説の自由(度)を指摘することになる。

 『幻年時代』は坂口家が福岡県糟屋郡新宮町にある電電公社の団地内の古い建物から新社宅へと引っ越した、その年、4歳の坂口恭平が母親に連れられて、初めて自宅から幼稚園に向かうまでの道のりを自由連想的に綴った回想記である。断片的だった記憶が連続した線を結ぶ4歳の坂口恭平の原点は新社宅の裏庭の砂利と団地から幼稚園へと続く砂利道の人工性と、その道すがらフェンス越しに広がる松林と白い砂浜の砂から感じられる自然の境目への観察に始まっている。坂口の生活世界の認識が砂を基点してなされていることは興味深いが、紹介を続けよう。『徘徊タクシー』では祖父の危篤を知らされた「恭平」が熊本に帰郷した際に 認知症の曽祖母トキヲと再会を果たしたところから物語は始まる。トキヲの徘徊についていくうちに、忘却などされていなかった土地とトキヲの記憶の結びつきを発見した「恭平」は徘徊を手助けする「徘徊タクシー」を発想し、徘徊老人の記憶を掘り起こす冒険運転に出発する。この物語は実際に坂口が徘徊タクシーを実行した音声がインターネットにあげられていることからもわかる通り、坂口の現実における実践の反映の跡を色濃く残している。

 両者は坂口の読者であれば、それ以前の著作からの連続として何ら違和感なく読むことができるだろう。その理由は単純に、いずれも主人公の名は「恭平」であるからだ。たしかに作者本人と登場人物は区別されてはいるものの、作者である坂口恭平が「恭平」の視点から物語らせる構造においては、現政府という現実に他なる現実を示すために新政府を設立したというにわかに信じがたい行動にでた男、坂口恭平について作者坂口恭平が書いた『独立国家のつくりかた』から何ら変わらない構造をもっているのだ。三部作、最後の『家族の哲学』にも同様の構造が見ることができる。極端に言えば、初期三部作においてはその「恭平」視点が保たれている限りにおいて、小説独自の実践はまだなされていない、あるいは顕在化していないといえるだろう。

 初期三部作では坂口恭平が「恭平」の視点を通して、世界を記述していたとすれば、中期三部作では「恭平」は消滅し、その代わりに出生地や経歴から坂口恭平を思わせる人物あるいはまったく他なるものに視点はひとまず預けられている。ひとまずというのは中期三部作では多視点あるいは視点そのものが常に偏在化する記述がなされているからである。初期から中期への橋渡しをする場面は『家族の哲学』に垣間見える。鬱状態の「恭平」からもう一人の坂口恭平が絶望の果てから誕生し、「恭平」に対して、長々と14頁に渡って演説をする場面である。その男は他者に聞かれることを目的としないとしたうえで、このような具合で語る。「私には絶望なんてものがないことが分かった。それは絶望していると思っている人間には何の足しにもならないだろう。しかし、私は口にする。(中略)じつのところ体は動いているにもかかわらず、それがこれまで知覚してきた動きと違うために、停止していると勘違いしているだけなのだ。長い躊躇。つまり、これが絶望だと判断されてしまっている。(中略)絶望は絶望と見せかけて、体を停止させ、その間に、新しい体の動きを知覚した細胞たちが、ひっそりと身を隠しながら、訓練し、改良を重ねるという時間なのだ[ii]」作者坂口恭平と「恭平」の語りの二者関係は「恭平」の分裂によって新しい局面をむかえている。突如とした「恭平」の分裂、「恭平」視点そのものの分裂に『家族の哲学』を経て、中期三部作ではいかなる展開を見て取れるだろうか。これより順に『現実宿り』、『けものになること』、『しみ』の三作について見ていきたいが、その前に三作に共通する特徴だけをまとめておこう。三作は一度読み始めれば、だれもが気づくように、その内容と文体は初期三部作と全く異なっている。小説内の出来事は夢か現実か。あるいは誰のものなのか。イメージの連関がめまぐるしく視点と場所を移動させながら、それらを偏在化させる記述は読解そのものを困難にしている。容易には物語展開をトレースすることができないために、読者は意味のつながりではなく、一つ一つの事物、モティーフに焦点を合わせるほかない。坂口がどのような事物の引力に引き寄せされているのかを詳らかにする作業、つまり、読者は細部に神を発見していくほかないのである。

 『現実宿り』では全体にわたって一つの意志を持つかのように振る舞う砂漠が通底するモティーフ、舞台として設定されている。それは小説内で、わたし、わたしたち、おれの三者の語り手の分裂と後半部での不意の同一化を繰り返す砂漠である。ダリのシュルレアリスム絵画を思い浮かべれば、砂漠とは意識的なものの個別性を時間とともに、すべて無化し、その集合のうちに擬態させていく運動体であったはずである。『現実宿り』では、モンゴル人の青年モルンに呼ばれ、ウランバートルの平原を訪れた、わたしが土に埋没し、わが身をもって砂粒の記憶を想起するという儀式的であり、象徴的な場面が描かれる。

 初期のシュルレアリストとの交流ののち『斜線』に代表されるようなシュルレアリスム批判を展開した、フランスの文芸評論家ロジェ・カイヨワは「擬態と伝説的精神」のなかで「擬態」の最終目的は「環境への同化」であり、またその周囲環境に同化することで、自らの感覚を喪失する「精神衰弱」患者との類似性を示している。ここで注目したいのはカイヨワがそれらに加えて、擬態のある奇異な特徴を指摘していることである。それは昆虫が主に枯葉や排泄物という「不活性物質」に擬態するという特徴である。カイヨワの「擬態」論を援用すれば、『現実宿り』における砂への埋没は不活性物質への擬態であると理解することができるだろう。わたしは砂粒という「不活性物質」へ擬態することで、不活性物質化を遂げるのだ。これは坂口がカイヨワの枠組みを見事に小説化していることを確認したにすぎないが、さらに坂口は擬態の深部へと舞い降りていく。『現実宿り』では擬態した際にわたしに砂粒の記憶が舞い戻る、あるいは忘却されていた砂粒の記憶が想起される。つまり、一度、不活性物質化したわたしは同時に生なる記憶を再活性化することでカイヨワの擬態を脱出しているともいえるのだ。この坂口の小説の向かう先はマルセル・デュシャン錬金術的な「変性」から産出される大ガラスである可能性すらあるが、その議論は別の機会に譲りたい。いずれにせよ『現実宿り』において、わたしは他なるもの、それは人間ではなく、昆虫や不活性的な砂粒に擬態することで、他なるものの記憶を獲得したのだ。

 『けものになること』では『独立国家のつくりかた』以降の一貫した問題意識である共同体の可能性、集団の予感が一枚の絵に託されている。「もっと深いイリュージョン。ポロックの作品『五尋の深み』に見える、林立する遺伝子の集団の予感。(中略)わたしはポロック破局に至った、崩壊したあの呪術に魅せられている。むしろ、そこにしか、解決を超える、円環からの脱出はないのではないか。修正、調整、閣議決定、成長痛、話し合い、恋から愛へ、愛から家族へ、その共同体、タブー、正義、本音[iii]」それはジャクソン・ポロックの《五尋の深み》である。ポロックは1950年代アメリカの抽象表現主義の画家であり、彼のオールオーヴァーと呼ばれる一連の作品は美術批評家クレメント・グリーンバーグによってモダニズムの還元主義(平面性)の代表格として評価された。1947年に制作された《五尋の深み》もオールオーヴァーの絵画である。細かく砕いた鍵や釘、煙草、硬貨をキャンバス上の塗料のうちに埋没させることで、画面には物質的な深みが生まれている。このような画面への物質の埋没はそれだけでも擬態のイメージを喚起させるが、擬態はより多重的に宿っている。なぜなら、ポロックの制作風景を撮ったハンス・ネイムスやセシル・ビートの写真に共通して見られるポロックやモデルがオールオーヴァーの画面の前に立つことで、人物が背景の画面への埋没していく構図はポロックがその制作において、画面への没入を欲望したことと相似形の画面そのものへの擬態欲望のようなものを示していることがしばし指摘されているからである。『独立国家のつくりかた』では直接的に語られていた新しい共同体論が小説においては擬態を幾重にも内包した一枚の絵画に託されていた。つまり、小説独自の可能性は擬態によって可能になることを坂口は直感で書き当てたといえるだろう。そして、坂口が五尋の深みに擬態したあの姿を幻視したとすれば、そのフィギュアはもう一人の坂口恭平、真理夫のものではなかっただろうか。

 『しみ』はぼくと謎の男シミが富士山周辺の山奥で出会い、車に乗せられ、当てもなく何処かへと連れて行かれながら、そのうちに8人の王子、八王子と出会う、たった1日間についての冒険小説であるが、何よりもぼくの名が真理男と書いて「マリオ」であることが決定的に重要である。坂口の別名坂口真理夫を思わせる命名である。冒頭で予告したように、ここで初めて作者坂口恭平は「恭平」から他なるものへの擬態を通して、ついに、もう一人の坂口恭平、坂口真理男に邂逅することになるのである。坂口は初期三部作のように「恭平」へ半ば同一化するのではなく、「真理男」へと擬態する。小説内においては、真理男も同様にシミや八王子の視点に成り代わることで、小説という風景の中へと埋没していく。一体、誰が誰の体験あるいは記憶を想起し、経験しているのか。全てが風景の中へ一瞬間、擬態しては個別性をもって離反することの繰り返しである。「シミはただ風景に溶けていた。風景の一部になるにはどうしたらいい?[iv]」と真理男は問いかける。シミの運転の最中において、擬態は真理男を他なるものへと留まることを要求する。『家族の哲学』において、あの時、聞き流してしまった、あの男の言葉を回想すれば、擬態とは長い躊躇であり、それは一種の絶望であるとさえ言えるだろう。新しい知覚に気づくまでの少しの躊躇を人は絶望であると勘違いする。しかし、逆に言えば、それは新しい知覚への準備(Practice for a Revolution)であり、「自然に」生じる人間的な躊躇いでもある。「風景の一部になるにはどうしたらいい?[v]」シミは答える。「これはおれにとっての誠実で、自然なところだ。おれは自然なんだから、不自然なことをしてどうする?[vi]」と。

 坂口恭平は他なるもの(真理男)を同一人物化するのではなく、どこまで別人として擬態することで、中期三部作の小説を可能にした。作者と登場人物が自己同一化あるいは分裂するのでもなく、反対に自己と他者が統合、結合されるのでもない。そうではなく、作者そして、登場人物が他なるものへと擬態することで、他なるものの記憶を生き、新しい知覚を待望すること。これこそが小説の自由(度)ではないだろうか。

 

 

[i] 坂口恭平『現実脱出論』講談社、2014年、138頁

[ii] 坂口恭平『家族の哲学』毎日新聞出版、2015年、212-213頁

[iii] 坂口恭平『けものになること』河出書房新社、2017年、170-171頁

[iv] 坂口恭平『しみ』毎日新聞出版、2017年、117頁

[v] 同書、同頁

[vi] 同書、118頁

文字数:5884

青と黒と透明 - 最果タヒの色彩感覚をめぐって(批評再生塾初出)

                「瞳の中に暮らすことが、恋することだ、恋されることだ。」

                  (最果タヒ×今日マチ子「ライフ・イン・マイ・ヘッド」)

 

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」。多くの読者あるいは論者はそれを青色であると思っている。なぜなら、その言葉が「青色の詩」のうちに置かれているからだ。しかし、本当に「夜空」はあの青色なのだろうか。

 

 最果タヒは第13回中原中也賞を受賞した『グッドモーニング』以来、詩集としては『空が分裂する』、『死んでしまう系のぼくらに』、そして『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を刊行するとともに、漫画誌での連載やイラストレーターとの共作、さらには小説まで、脱領域的な活動を展開する詩人であり、作家である。また最果自身はメディアに顔出しをしないために、匿名的な存在であり続けている。見えない作者の神秘性とネット世代の思春期をくすぐる詩篇は、現代詩内外から異例の支持を受けている。帯文によれば「詩の新時代を拓く」、最果タヒの詩としては最新作であり、初めての映画化作品が『夜空はいつでも最高密度の青色だ(以下『夜空は』)』である。タイトルの「青色」に象徴的なように、この詩集では最果の色彩感覚が鋭敏にも炸裂している。しかし、それゆえに、読者の理解を困難にしているようにも思われる。さらに驚くべきことに、その色彩に注目した評論もほとんど存在していない。すなわち、私たちの問いは明確である。「最高密度の青色」とは何か。原作『夜空は』とその映画をたよりに最果の色彩感覚を紐解いていきたい。

 

 最果は詩の視覚的な作用に意識的な作家である。例えば、デビュー作『グッドモーニング』におけるタイポグラフィー的記号表現、吉増剛造さえ思わせる余白(キーボード上のスペースの連打という吉増とはまた別種の身体的な運動が伴っている)はあたかも一片の詩と紙面が一枚の絵画のように構成されており、その画面構成に対する繊細さは近作にまで続く形式上の一貫性である。したがって、初期作より詩における視覚的な構成と配置に執着する最果が同じように視覚に作用する色彩に意識的でないはずがないのだ。私たちは『夜空は』のうちにも色彩表現を見出さなくてはいけない。それも3つも。前置きが長くなった、本旨に移る。

 

 『夜空は』は縦書きと横書きの詩が一見不規則に並べられており、その目次には不思議なことに名に「色」とついた詩がちょうど3つある。初めに置かれた「青色の詩」、次に「ゆめかわいいは死後の色」、そして最後に置かれた「黒色の詩」。「青色の詩」と「黒色の詩」は見開きの左頁に横書きされ、「ゆめかわいいは死後の色」は右頁に縦書きされている。縦書きと横書きの区別については、最果の言葉を借りれば、縦書きの文字列に流されてしまう視線を横書きの挿入によって「切断」する効果をもたらし、また、より具体的にはSNS上のメッセージのやり取りなどがイメージされる。語り手のモノローグを中断させてしまう不規則な切断は私たちを不安にさせるとともに最果の世界観へと誘導する。そしてその切断は冒頭、突然訪れる。「青色の詩」。

 

「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。

 塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。

 夜空はいつでも最高密度の青色だ。

 きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、

 きみはきっと世界を嫌いでいい。

 そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。」

          (『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、リトルモア、7頁、)

 

 前半3行、マニキュアを塗った爪の色を自分自身の体の内側に探していくと、ふいに遥か彼方の夜空へと向けられる視線の運動が面白い。自分自身のもち得ない色を探していたはずのきみが、夜空に見出す「最高密度の青色」。1つ目の色は当然のように最高密度の「青色」である。続く、後半3行ではきみと世界の切断とデタッチメントがはっきりと示されている。すると、中央に位置する「夜空」は唯一、世界へと開かれた窓のように読めるかもしれない。ただし、特に近作において、最果は安易な他者との恋愛や承認を一切排除し、むしろ突き放された関係性(死、好きと軽蔑の等価性)、互いに無関係であることに孤独と自由を見出している。この点には最果の詩と「切断」の時代との密かな同期が指摘できるはずだ。いずれにせよ、このような近作の傾向を踏まえれば、体の内側に爪の色を探していたきみの視線は外側の世界へと開かれ、きみとぼくとをつなぐ夜空を発見するのではなく、やはり、その「最高密度の青色」もいまだきみの体の内側にあると読むべきなのではないだろうか。おそらくこのような読解をもとに、映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」は製作されているが、その理由については後で述べるとして、次の縦書きの詩(一部)を読んでみることにしよう。「ゆめかわいいは死後の色」。

 

「生命感があふれるひとほど、フィクションに見える感覚。ゆめかわいいは、死後みたいな、色。今も、地上のどこかでは雨が降り注いで、瞳のいくつかは閉じられている。死ねと、いえば簡単に、孤独を手に入れられていた。きみをなでる透明の風に、いまさら、なりたくなんてない。」

                        (同書、10頁、(本文縦書き))

 

 一読した限りでは、この詩に具体的な色彩を指摘することはできない。死後の色も明示されてはいない。だが、ここでは色ならざる色として「透明」が定型的に示され、またまぶたの暗闇が間接的に仄めかされている。「きみをなでる透明な風」。当文は近作において最果が多用する定型文であり、また同時にそこに含まれている「透明」も『夜空は』において多用される表現(計6回)である。透明な水晶体があらゆる色彩の認識を可能にするように、あるいはカメラのレンズがそうであるように、最果の定型的な「透明」なるものも青や黒を映し出す媒介物であると理解することができる。「透明なもの」の含意については最果の場合、季節の変化のような周期的な時間性と深く関連付けられていることも指摘しておくべきであろう。短い引用ではあるが、もう少しだけ、この詩に留まりたい。閉じられたまぶたの奥に広がる暗闇=黒についてである。それは「瞳のいくつかは閉じられている」、そのとき、視界に現れる色である。では瞳を閉じている主体は誰なのか。最果の今作と前作『死んでしまう系のぼくらに』では共通して、単純化された人称、ぼくからきみ(読者)への発話、呼びかけの構図が採用されていることからも明らかな通り、「地上のどこかで」瞳を閉じているのはきみであり、それを読んでいる読者自身であると考えられる。したがって、ここで暗示されている暗闇は読者である私たちの視覚に向けられたものなのである。付け加えれば、「死ねと、いえば簡単に、孤独を手に入れられていた」という言葉には「青色の詩」同様に、きみと世界の切断とそれによって得られる孤独が示唆されている。「青色の詩」から始まった詩集は、切断に始まり、切断に終わる。「黒色の詩」。

 

「意味もなく燃えて、

 消えていくだけの命が、美しくないなら星だって同じだ。

 きみがいなくなって僕は生きるだろうとわかっていることが、

 ただの生命力で、エゴですらないことに悲しんでいる暇もなかった。

 眠る時間が長いひとは、産業廃棄物みたいなものだね。

 交差点は海のように、光を蓄えていた。

 好きだという言葉と軽蔑に、

 大して変わらない反応を見せるぼくの心臓。

 街の宝石はネオンでも星でもなく、

 ねむれないのに無理に閉じたきみのまぶたの奥にある。」 

                                (同書、91頁)

 

 『夜空は』の最後に置かれたこの詩では「青色の詩」における隠喩のより具体的な言い換えがなされている。なぜなら、おそらく「街の宝石は」から始まる最終2行は「都会を」から始まる「青色の詩」冒頭3行に対応する形で書かれているためである。「青色の詩」3行目の「最高密度の青色」を「黒色の詩」における「きみのまぶたの奥」にある暗闇に重ねるとすれば、ここでは2つ目の色、黒が有意的に暗示されるとともに、青色の黒への限りない近接を読みとることができる。また「街の宝石」が街のネオンや夜空のきらめく星にではなく、閉じたまぶたの奥にあることは、その所在が体の内側にあることも示している。もう一つ、この詩において、やはり指摘しておくべきは繰り返しになるが「切断」を生き死にまで極端化した「きみがいなくたってぼくは生きるだろうとわかっていること」という言葉である。振り返れば、『夜空は』では、交わりをもたない者同士(そこには自分自身をも含む)の肯定的な関係性が語られていた。「きみが生きていること ぼくには本当は関係がないことだ。」(「ひとの詩」)、「もう永遠に、次は聴けない音楽と、すれちがいたい(中略)今日の私は、昨日の私を、無視できるから美しい。」(「朝」)。次の瞬間には関係を打ち切ること。閉じられたまぶたは反復、習慣化される関係性の即時的な切断であり、それゆえに私たちは孤独になることができる。すなわち、まぶたを閉じたその奥(体の内側)にある黒とは「切断」を象徴する色でもあるのだ。

 

 3つの詩と3つの色、青と黒と透明。3つの詩を読む最中にも、すでにそれらは互いに関連し、複雑に絡み合っていた。以下では前段落において示された、まぶたの奥に広がる暗闇=黒と「最高密度の青色」の近接性を映画内表現によって補足し、次に黒と透明の共通性へと展開することで、青と黒と透明を三位一体的に結びつけたい。

 

 例えば、内側の黒への近接を映画における改変にみることができる。時代や舞台また登場人物、物語性は設定されていない原作に対して、映画では、時代は限りなく現在に近い2020年東京オリンピック前、舞台は渋谷と新宿、登場人物は二人の男女、全体は彼らを中心とした恋愛物語に設定されている。そして、おそらく最も重要な改変は池松壮亮演じる主人公、慎二の左目の視力が失われていることにある。映画の中盤、左目の視力を失った慎二の主観ショットがある。右側は渋谷の風景、左側は暗闇という画面を二分する数秒間。次第に、右側には慎二の連想した言葉の羅列が街の風景を埋めるように文字となって現れる。対して左側はいつまでも暗闇のままである。観客の視線は右側に釘付けになる。「ユリイカ」6月号掲載の評論家栗原裕一郎最果タヒはラブストーリーを書いたか」の論旨を援用するとすれば、画面を半分にする象徴的な意味は慎二の持つ日常性と死性の世界を視覚的に表現することにあったと、ひとまずは解釈できるだろう。すなわち、映画冒頭より建設現場の仲間たちの間に生じる沈黙を掻き満たすためだけに発せられる慎二の「無意味な言葉」と建設現場の厳しい現状(同僚の突然の死)とが彼の世界を半分にしていることを象徴するかのように、スクリーン上における画面の分割がなされているというわけだ。しかし、それだけだろうか。最果の色彩感覚を追ってきた私たちからすれば、塗った爪の色の代わりに体の内側にある最高密度の青色が、劇中、端的に表現されたショットこそ、画面分割における左側の暗闇に見えないだろうか。世界の半分は観客の視線が右側の記号的世界に向けられる中、時を同じくして、陰日向に映写されていた暗闇に表現されている。それは観客全員に見逃されると同時に、慎二の暗闇をぼく、あるいは他者から見ることができないという意味で二重の不可視性をまとっているのだ。まとめれば、慎二の左目の視力が失われている設定上の必要性は、最高密度の青色が体の内側にあることと二重の不可視性の具体的表現のためにこそあったと考えられる。したがって、石井裕也監督は夜空のような「最高密度の青色」が、ぼくが呼びかけるきみ(慎二)の内側にあることを鋭く読解し、映画化に際する設定に落とし込んだと言えるだろう。

 

 それでは、もう一方で、最果の詩における「黒」と「透明なもの」の使用はいかなる符合を見せるだろうか、確認していこう。「黒」とはどのような色か。厳密に言えば、まぶたを閉じた際にその奥に広がる黒は、スクリーン上の黒とはその認識の仕方において決定的な差異をもつ。後者は周囲の色彩、具体的には画面右側の渋谷の街との比較によって認識される相対的な黒、暗闇であるのに対して、前者の黒は周囲の色彩を欠いているがために、本質的にそれを黒であると私たちは認識することができない。相対的な黒に対して、最高密度の「黒」はそのような認識の不可能性をもっているのだ。美術史を知る者であれば、カジミール・マレーヴィチの代表作《黒い正方形》における絶対零度の黒を想起するかもしれない。「透明なもの」はどうだろうか。私たちはあるものの相対的な透明さを認識することはできるが、やはり黒と同じように、透明そのものを認識することはできない。私たちが認識する透明さは常に一定の不透明を含んだものでなければならないのだ。このような透明性とその認識不可能性についての議論は私たちを絵画の起原へと立ち戻らせる。ジャン・バッティスタ・アルベルティは『絵画論』の中で、絵画を世界に開かれた窓にたとえ、また、その伝統的モデルを引き継いで、オルテガ・イガセットは『芸術の非人間化』において、窓ガラス越しに見える庭そのものと窓ガラス上に映る庭の二つの分裂した視線との、その両立不可能性を指摘した。アルベルティの絵画論を踏まえながら、同書においてオルテガが絵画=窓「ガラス」モデルを提示していることは一考に値する。アルベルティによれば、ルネサンスを待たずとも、古代より画家が目に映る自然をそのまま描きこむためには、媒介物(平面)はその性質として不可視で透明なものである必要があった。逆に言えば、伝統的に画家の技術とは媒体の持つ性質(不透明性)そのものを鑑賞者に認識させないことにあったのだ。ただし、当然のように、絵画=透明な開かれた窓という想定は理念上でしかありえず、実際には画家はひとたび、外部の世界を曇りなく認識し描こうとすれば、必ず、平面の不透明性を発見することになった。言わずもがな、近代絵画のそのような袋小路はまさに窓ガラスと外部世界を同時に認識すること、すなわち近接視と遠隔視の両立の不可能性、あるいはその間に潜む奥行きを描き出す、ポール・セザンヌの終わりなき試作のうちにみることができる。

 

 以上より、透明の不可視性(アルベルティ-オルテガ)と黒の不可視性(マレーヴィチ、《黒い正方形》)の構造的な同一性が明らかとなった。最果のいう黒とはまぶたに隠されることで、ぼくからは本質的に不可視のものであり、透明とは不可視の周期的な時間を示すものであった。したがって、最果の黒と透明の扱いも、それらの本質的な不可視性において、アルベルティ-オルテガマレーヴィチの認識不可能性に当てはめることができるのではないだろうか。ここで、私たちは「最高密度の青色」に近接する黒と透明の構造的同一性によって、美しくはないものの、3つの色が三位一体として、最果の詩的世界を表しているのだと結論したい欲望にかられる。しかし、最後に私たちは冒頭の問いを反転させ、それに答えなければならない。つまり、なぜ、最果の色彩感覚は限りなく黒(=透明)に近接しながら、それでもなお「青色」と表現される必要があったのか。そして、最果の「青」は何に由来するのかと。

 

 最後の問いにはこれまでの議論の見過ごしをつなぎ合わせることで応答してみたい。私たちは暗闇を瞳にもたらすまぶたについて、あるいは映画的表現においては、まぶたのように観客の瞳を閉ざしてしまう画面左側(スクリーン上)の暗闇について分析してきた。だとすれば、見過ごされた分析対象はきみの瞳、観客の瞳だけであり、それこそ、最果があえて「青色」と表現した理由の在りどころに他ならない。最後の詩「黒色の詩」に目を向ければ、5行目から6行目。産業廃棄物の発する、燃えて消えていくだけの目に見えない電磁波のイメージと海のように光を蓄える交差点とが重なり合う。まぶたで隠された最高純度の瞳は、海の最果てに堆積する廃棄物から、漏れるわずかな光によって、一瞬間きらめく。それは深海の色にも似た、最高密度の青色であったのかもしれない。最果はまぶたを閉じることで目に見えない暗闇を志向する、と同時に、閉じたまぶたのうちにわずかな光をも反射する宝石、瞳を見出そうとする。瞳の光。最果はそれでもなお光を見ようとしている。すなわち、青とは瞳に反映する光のことではないだろうか。