よわいめ|ヨワイメ

同時代カルチャーをレビューするブログ

10月27日のいろいろ。

立川から青梅線に乗り込むと、ドアの開閉部の真下あたりにブルーベリー色の液体が付着していた。左へと体の向きを変え、空いている席に座ろうとすると、白い紙に黒字で「使用禁止」。土曜の明け方に嘔吐物が垂れているのなら、よくあることだ。しかし、いまは土曜の夕方だ。青梅線は帰路につく家族連れで賑わっている。そこに血痕。車内は事には触れまいとする圧力で張り詰めている。子どもが笑っている。

さて、「ジョーカー」を観るために立川に行ってきた。鑑賞は2度目になる。が、1回目はバルト9の深夜回で見たせいで、記憶がぼんやりしている。なので、しっかり見ようと、超満員のシネマシティシアター1、D-4に座った。手前にはスマホホアキン・フェニックスの顔写真を検索する女性がいる。

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(映画館の前にピエロがいた。彼?)

先の展開を知っていると、アーサーにとっての現実と妄想の境界が予想以上に不明瞭で、物語が進めば進むほど、序盤の出来事との因果関係がよく掴めなくなることに気がついた。確かなのは、全てが現実だとは言えなそうだ、というぐらいだろうか。

そのうえで、原作を読んでいない僕の勝手な解釈を言えば、アーサーは些細な悪事を働いて捕まった。だが、その卑小さに耐えかねて、自ら強大でヒロイックな悪を獄中で妄想した。その埋め合わせ作業を描いた映画が「ジョーカー」である。

冒頭のカウンセリングの場面で一瞬、真っ白な部屋に隔離されて、囚人服を着たアーサーが顔の位置にある小さなガラス窓に頭を打ち付ける映像が挿入される。(劇中では数度アーサーが頭を打ち付けるショットがあるが、これは幼少期に受けた頭部の外傷を暗示している?)あの部屋はおそらくラストシーンでカウンセリングをする収容施設?と同じ空間である。ということをラストシーンから遡って考えてみると、冒頭の時点でラストシーンの場所がフラッシュバックされているとすれば、この物語はすでにアーサーが精神に異常をきたして逮捕?、あるいは隔離されているところからスタートしていると言える。つまり、アーサーが事を成したあとから始まっていると。

そう思うと、冒頭から二回繰り返され、それを機に打ち切られるカウンセリング時のアーサーは妙に演技じみているようにも見えてくる。悲劇のヒーローを率先して演じるかのように、あるいはコメディ番組に出演するための予行練習かのように。彼は自分の卑小さに耐えられない男だ。母親も同じかもしれない。だからこそ、ありうべき父親を妄想し、偉大な「この私」をでっちあげようとしてしまう。そして、「強大な悪」を。

最期のカウンセリングを終えて、血の足跡を残しながらアーサーが歩いていくのは、右手に入り口、左手に出口のある廊下である。母親が死んだ病院と同じ構造だ。母が死して、子が入る。この負の連鎖、それ自体も、アーサー=ジョーカーの作り出した「卑小ではない悪」の妄想かもしれない。確かなことは1つもない。残された血痕も白い光の中に消失していってしまう。そして、The End.

帰りにまたもや本屋を覗く。ジャレド・ダイヤモンドの新刊『危機と人類(上下巻)』が平積みになっていた。今度買おう。レペゼン地球のインタビューを読んだ。教育的配慮の行き届いたインタビューだと思った。

f:id:kouminami:20191027204148j:imagehttps://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784532176792

ところで、中高生が「ジョーカー」を見たら、何を思うのだろう。超満員の観客の中にはたくさん10代の人がいたようだけど、彼らは一体、ジョーカーの「悪」や「笑い」をどう受け止めるのだろうか。「やばい」だけでは言い尽くせない「ヤバさ」があると直感的にやっぱり思うのだろうか。聞いてみたいところ。

血痕のついた床を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。帰宅。