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エモくはないソフィカル

現在、原美術館で開催中の「限局性激痛」も然り、ソフィの多くの作品は何かの始まりや終わりについての物語形式をとっている。さらに原美の場合は前回と同様に杉本博司の「海景」とともに展示されていることもあり、そこに「喪失」というテーマが前景化する。パラフレーズしてみよう。何かの始まりはそれ以前にはその始まり以降の経験が本人の中で喪失されていたことを発見する機会であり、そして、何かの終わりはそれ以降にはその終わり以前の経験が本人の中で喪失されることを発見する機会である。だから、ソフィは二つの喪失を撮った作家である、と。この喪失こそ、エモさのエネルギー源である。

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でも、ソフィはもう少しややこしい。問題は「始まりと終わり」自体が一体いつからなのかを決定できないことにある。ひとたび考え始めたら、始まりの始まりの始まりの、、、終わりの終わりの終わりの、、、といったように、すぐさまに無限後退が開始されてしまう。例えば、法的な手続きであれば、規定することは可能だろう。結婚なら婚約届けを提出したら始まりで、離婚届を提出したら終わりといったように。しかし、それは書面上の一応の法的な規定であって、実際の人間関係はそれらによっていきなり始まったり、終わったりはしない。いや、もっと一般的にはほとんどの人間関係は口約束すら交わさずに成立している。それゆえにソフィの作品では喪失を伴う始まりと終わりは決定的な威力を弱められてしまう。ソフィがエモくない理由はここにある。私たちは適切に喪失感を管理され、エモさを緩和されている。ソフィはだから、ロマンティックではない。