<ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校>グループC『完全なる仮説』展レビュー

ラディカルな仮説のために

 

 新芸術校一期弓指寛治、二期磯村暖。二人は、別々の仕方で、世界への鋭敏さを兼ね備えていた。思えば、当然のように、鑑賞者はどこかで、芸術作品に日常の平準化した世界認識に対する先制第一撃を期待している。仮説とはまさにそのための手段ではないだろうか。

 「完全なる仮説」は仮説である限りにおいて、事前的であるがゆえに、有名無実な構成物にもなるだろうし、反対に、それゆえにモラトリアムな留保の元に、ラディカルな自己/社会変革的な試みにもなるだろう。鋭敏さとは仮説の条件なのである。はっきり述べれば、本展作家のうち、前者は三上悠里、ヤウンクル関根、田辺結佳、鷲尾蓉子、後者はモリエミ、スズキナルヒロに当てはまる。以下では、その理由について述べていく。

 三上のクリアにデザイン化された憲法の質量をモービル、胡麻、水量によって相対的に示す中性的な展示、ヤウンクルのギリシャの砂浜に雪崩れ込む難民たちを思わせる、鳥取砂丘に集うポケモンGOユーザーの写真と難民の入国を防ぐ(と同時に鑑賞者の進行を阻む)かのように、銃を備えた黒ずくめのハンター、そして、その先に配置された田辺の家を失った人々の一時的な住処である仮設的なテント。これらの興味深い動線設計は、現憲法の自明性や難民、仮設住宅を連想させることで、図らずもそれぞれの政治性を浮上させているのだが、この政治性をどう受け止めるべきだろうか。残念ながら、3作家にはこの政治性を意図せざるものとして受け流す、ナイーブさ(鈍臭さ)を感じえない。

 もちろん、スマホ越し/レンズ越しに砂丘を眺めるバラバラの被写体と単一の作家であるヤウンクルの写真は両者ともにコミュニティへの参加のできなさを二重写しにするだろうし、熊本地震の経験から着想された田辺作品は、潔癖症的なエゴイズム=ミニマリズムの徹底が亀という不純物によってなし崩される展開によって、災害ユーピア/ミニマリズムのテンポラリーさ=仮設的であることの臨界線を仮説的に示している点で興味深い。欲を言えば、水槽に亀が入っていれば、地球に天変地異をもたらす超然的存在者として神話上に描かれる「亀」へと補助線を引くこともできただろう。その上でもっと「制作」への自覚とともに「展示」への自覚化を図りたい。

  鷲尾作品は新宿中村屋サロンの共同体の形に新芸術校(=カオスラウンジ)への情念の通底を批評的に接続するテキスト、絵画、著作、鷲尾自身による解説を含めたリサーチを前提とした演劇的なインスタレーションである。私は、その解説を聞きながら、一つの疑問を感じていた。「対象物と作家自身がどのような関係にあるのか。なぜ、作家は本来的に無関係であるはずの対象について語り、作品化する権利を持つのか、なぜ、あなたが?」。例えば、その応答を留保したままで、その権利を作家の「情念」等に求めることは以ての外ではないだろうか。なぜ、語りうるのか。その必然性を作品内に挿入する必要があるだろう。本作にはそれが端的に不十分であった。なお、作家本人による解説方法の工夫も求めたい。

  世界への鋭敏さ、それは言い換えれば、自作品が発する世界観に作家本人が自覚的であるという意味である。モリエミの場合には、その点、自覚的でないことが否めないものの、リンゴをモティーフとした文字、絵、写真、囲碁板上のオブジェは互いに鑑賞者の視線を誘導し、不断に生成変化するエロスを喚起する魅力を感じた。

 そして本展において、唯一、鋭敏な感覚=エロスを自覚し、展示空間に反映させた作家がスズキである。同じく自画像的である友杉宣大(グループA)の猫のようにキャラクター化された人物の強い黒線はベルナール・ビュッフェ、色彩対比は萬鉄五郎、叙情性はマルク・シャガールの夫婦像、静物画は形而上絵画やシュルレアリスムを思わせる。彼がステイトメントに記す「青春」からにじみ出るエロスの臭気は、短パンというモティーフに集約できるかもしれない。作家本人が下半身にまとった短パンと、絵画内、短パンを穿き、向かい合い煙草をふかす二人。短パンの気恥ずかしさと、運命の逆らえなさに感知する、二人の吐息が、今に伝わってくるほどの魅惑的な人物像=自画像である。

 しかし、それにしても、仮説でさえ、臆病な世界とは、なんと退屈だろうか。仮説とはもっとラディカルであるはずだ。芸術家には、現実に直面しながらも、それでもなおも「仮説」を立てつづけられる存在者でいてほしいと思う。