21世紀の映像は記憶能力を必要としない—田中功起「Grace」にみる反復とリアルタイム性について—

 21世紀における、インターネットの普及とモバイル化を通した全地球的な情報発信/受信のネットワーク化は、リアルタイム性に対する私達の欲望を常時的に駆動させている。具体的に芸術の領域においては、作家と作品の各主体性がリアルタイムという限定的な時制のうちに融解し、観客との明確な区別のし難い状況を生んでいる。映画館での受動的鑑賞が古典的な観客モデルだとすれば、それに代わる、あるいは無効化する、ポスト観客の発明は、作品と作家、観客が互いに溶け合い、同一化するリアルタイム性を前提としなければならないだろう。リアルタイム性とポスト観客の発明に関する思考の手始めとして、「観客」参加型アートと一般的に呼ばれるようになった作家と観客、美術と社会を横断する理論的枠組みから分析していきたい。

 「観客」参加型アートと言われて久しい、昨今の美術動向において、作品と観客の関係性の再編成に関する理論的枠組みが、日本国内でも、例えば『地域アート――美学/制度/日本』、『人工地獄』などの出版に象徴されるように一つの熱点となっている。遡れば、美術批評家ニコラ・ブリオーの著書『関係性の美学』(1998年)に端を発する関係性の美学、あるいはリレーショナルアートと呼ばれる理論への注目である。ブリオーの言葉を借りれば、それは「美術の理論的地平を独自性や個人的な象徴空間という主張ではなく、人間相互のインタラクションとその社会的な文脈に置くもの」(Nicolas Bourriaud,Relational Aesthetics, les presses du réel, 1998, p.14)である。言い換えれば、作品の内容や形式ではなく、1990年代後半に広範化した、作品の制作過程に観客が参与する「関係性」そのものを重視する作品群に対する分析理論である。ブリオー自身が挙げる具体的な作家名は多岐に渡るものの、広義にはその意味を「観客が「参与」する状態/過程=作品」と定義して良いだろう。

 では、「参与」する観客とはどのような主体だろうか。「関係性の美学」領域では、「参与」に関して、ParticipationEngagementのような、どちらもフランス哲学由来の二つのタームが使用される。例えば、前者はジャン・リュック・ナンシーの「パルタージュ」、後者はジャン=ポール・サルトルの「アンガージュマン」の概念へと直結している。カトリックのミサに際して、イエス・キリストの身体と血を意味するパンとワインを参加者で分け合うことで、信者同士の共同性を発生させること。つまり、ある主体の共同体への包摂を生み出す参与としての「分有」=パルタージュと、主体の政治的抵抗としての参与=アンガージュマン。二つはそれぞれ、別の観客像を想定する実作品に適応されているが、それらを束ねる中心的な思考は観客を作家-観客へと複数に断片化する主体像に求めることができるだろう。ブリオーの「関係性の美学」を批判的に継承した美術批評家クレア・ビショップがインスタレーションに「参与」する観客をfragmental(断片的な)と形容していることは示唆的である。ビショップは複数の観客=主体が、作品空間に入り込むことで行為主体となると同時に、それを眺める観察主体にもなるという、フラグメンタルな主体性を確保するインスタレーションの構造に、小規模に組織される集団による社会/政治参画の契機を見ている。ただし、ここには1968年の五月革命に象徴されるフランスの知識人の中で世代的に共有される(左翼)の急進的なイデオロギーを前提とした、社会/政治的な領域へと参与していく主体の創設という、ビショップの先見的な理想主義を垣間見ることができるだろう。したがって、それゆえに統合的な主体としての観客ではない、断片的な主体という発想は、魅力的ではあるものの、やはり理念先行型のユートピアの域をいまだ出ないことが否めない。

 おそらく、そうした断片化した主体としての観客は、最も現実的には、旧東ドイツ出身の美術批評家ボリス・グロイスが鋭く指摘するように、美術館の別の場所で立ち現れていると考えられる。グロイスは論文「イメージからイメージファイルへ、そして再生」(“From Image to Image File”, 2006)において、美術館での不動のイメージ(絵画や彫刻)を運動する鑑賞と映画館で運動するイメージを不動の観客を対比させた上で、そのどちらも成立しないモデルとして、美術館での映像作品の鑑賞を挙げている。彼によれば、「ヴィデオ・インスタレーションの美的価値は、主として、映像が潜在的にもっている不可視性を明瞭に主題化することにある」(ボリス・グロイス『アート・パワー』石田圭子他訳、現代企画室、146頁)。

 どういうことか。有限の時間的な全体性を持った映像(動くイメージ)を美術館の観客はその場に足を止め、すべて見ることはせず、中途に他の展示作品と合わせて見回るために、観客は断片的にしか映像を鑑賞することができず、その全体性は不可視のままに置かれることになるということだ。「来場者は潜在的に、同じヴィデオ作品の別の場面に遭遇する。これはつまり、見るたびごとに作品が異なっているということである。そして同時に、作品が部分的に観者の視線を逃れているということであり、また作品自体が不可視にされていると言うことなのである」(同書、147頁)。このようにグロイスは分析し、その否定的媒介によってのみ全体性を想像することの主題化こそが美術館の映像作品だけが持つ特権的な特徴であると指摘している。

 映画館での全体性を受動的に鑑賞する古典的観客モデルとグロイスの指摘する「美術館での断片化を否定的媒介として、全体の不可視性を認識する鑑賞モデル」の比較は、その間に存在する決定的な差異からだけでも新しい観客像を提起することはできるのかもしれない。つまり、映像を前にして、断片化する美術館の観客である。

 

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 美術館における映像作品の原理的な構造に対して、グロイスの指摘する「否定的媒介」とは異なる解決策を提出した映像作品が、日本人アーティスト、田中功起が21世紀の最初の年に発表した「Grace」(2001年)に代表される初期作品群である。「Grace」とは教室の床の上でバスケットボールがバウンドを繰り返すだけの映像作品であり、作家自身はあるインタビューにおいて、その制作動機を以下のように振り返っている。

「ぼくはもともと美術オタクなので、どうしても知っているものの影響を受けちゃう。どうしても似ちゃうわけです。この状況ってたぶんものづくりに関わるひとだったらだれでも経験があると思うのですが、まさに「出口なし」でした。ぼくはどこにも行けないし、なにもないし、なにもできないというふうに思っていて、とにかくもうどうしたらいいのかわからなかった。(中略)もうひとつは毎日の生活に関係することです。いま思えば贅沢な話ですがとにかく日々の生活がものすごく退屈だったのです。単調だったんですね」(http://www.tokyo-source.com/interview.php?ts=6

 「Grace」に代表されるループ作品を生み出した二つの状態、美術史の文脈的な「出口なし」状態と田中本人も口にする、宮台真司の言葉を借りるなら「終わりなき日常」的な状態は、前者は現代アーティストとしての行き詰まり、後者は90年代後半の閉塞感を言い換えた言葉のように素朴に理解できる。しかし、前述したように、筆者が本作に別の解決策、別の観客モデルの提起を見るのは、二つの動機ではなく、即物的に短い尺でのループという編集方法においてである。作品の前にほんの数秒立ち止まる、いや通りすがるだけであっても、バスケットボールのバウンドの繰り返しの速度には追いつけず、反復を目にすることに、あるいはそれ以外を目にすることはない。どんな観客も映像におけるバウンドの反復の不変性を目にすることになるのだ。

 ここで明らかとなるのはグロイスがやはり全体性の確保を前提としたモダニズム的な映像理解に依拠しており、その圏域では、「Grace」のように短い尺で反復する映像はおそらく想定されていないということだ。つまり、正確に言えば、古典的な映画館モデルも、また全体を不可視化する美術館モデルも、いずれも全体性を志向する意志の(不)可能性を観客に要請したのに対して、田中の「Grace」では、初めから全体/断片モデルを放棄し、現在性のうちに全体=断片の等式が成立してしまうために、そこで想定される観客は、断片同士を記憶し、全体性を仮構する必要のない主体、つまり記憶能力を持たない者であるということだ。

 もちろん、記憶喪失や忘却を主人公に試練として課すことは殊、映画においては伝統的な物語手法であるだろう。実際にそのような映画や映像作品は無数に存在している。例えば、代表的にクリストファー・ノーラン監督作、「Grace」の一年前、20世紀最後の年に公開された「メメント」の主人公とはまさにそのような主体であった。本作において物語を駆動させる原理は記憶の忘却に抵抗する主人公の意志にあったことが重要である(メメント=忘れることなかれ!)。常に断片化する記憶の魔力に取り憑かれていると言ってもいい主人公の持つ脅迫的ですらある意志の有無において、「Grace」とは本質的に別物であることを明示している。というのも、記憶か忘却かという二項対立の前提となる、記憶能力そのものが「Grace」の観客においては必要とされていないからだ。したがって、両者の差異とは前者が映画、後者が映像作品であるために生じる、物語性の有無といった単純なものではなく、想定される観客に対するイメージの根本的な差異なのである。

 続けて、「メメント」とは決定的に異なるような「Grace」の観客が目にするものを詳細に見るならば、バスケットボールがバウンドして元の位置に戻ってくるまでの一秒に満たない現在という時間の単位がエンドレスに反復されていくために、本来、記憶を可能にするはずの過去と未来という時制を始めから失っていることに気づく。つまり、観客は常時的にリアルタイム性のうちに置かれているのだ。例えば、その観点からすれば、タイの映像作家アピチャッポン・ウィーラーセクタンも反復ではないものの、現在性の引き伸ばしという点で、その試みは田中のループ映像とパラレルな関係にあると言えるだろう。現在性=リアルタイム性は反復するにせよ、極度に引き伸ばされるにせよ、観客の記憶能力への期待を限りなくゼロに見積もることで、作品化されるのである。現在性に埋め込まれた記憶を持たない主体、あるいは必要としない観客の誕生。これがリアルタイム性のうちに、断片と全体を連結させる記憶能力を必要としないポスト観客の発明である。

 最後に、このようなポスト観客を前にしては、今後、記憶喪失という映画/映像的な物語手法は「記憶」の現代的な意味をめぐって、根本的な再考を強いられることになるのかもしれない。