新芸術校グループB『健康な街』展

「健康な街」と題された本展は「健康」と「街」についての秀逸なステイトメントを読むことができる。が、残念ながら、実際の作品との関連を見つけることは難しい。唯一、その中でも「健康」というテーマを正面から扱った作品が下山由貴の「健康意識」である。ソーセージやパンの制作過程の映像に囲まれて、真ん中にはグルタミン酸ナトリウムという食品添加物を1日掛かりで固めた50cmほどの山が置かれている。現代における抽象的な「暴力性」の位相を「食品添加物」の容認/排除をめぐる不毛な対立構造に具現化しているようだ。問題は、非添加物的な添加物の使用にある。というのも、下山の解説に従えば、添加物における暴力構造は他なるものに添加された際に発生するのに対して、展示の添加物の山は、添加物を純粋な単体の物質として盛り固めることで、最初から暴力の契機を排除しているからである。

ただし、制作過程の映像をよく見ると、実のところ下山が添加物を固めるために卵白を無意識に使用していることがわかる。私は、その「添加」の作業の無自覚さにこそ、現代の暴力の発生源と作品化の可能性を見た。
 
下山と同様にインスタレーション性をもつ有地慈の「スーパー・プライベート」は、所沢の飛行機墜落事故の現場と霊園を中心とした彼女の生活圏を映した映像を背景に、ループ構造を持つレール上の自転車が描かれたミニ車の走行が、ある仕掛けによって、飛行機を模した十字架の落下で寸断されるという作品であり、その下には実際に霊園から運搬された石が置かれている。その名が示す通り、有地の極私的な繰り返される日常の構造と日本の悪い場所性(椹木野衣)やセカイ系新海誠)に潜在する反復と忘却の構造をきれいに二重化し提示している。しかし、反復を飛行機墜落という反復のカタストロフによって、一時的に止め、また反復が始まる、という一連の操作は皮肉にも「悪い場所」の再演になっていると言わざるをえないだろう。

むしろ、私には生活のループを生み出していた、忘却された「記念碑」=霊園の石が取り除かれ、ノンサイトとなった所沢の空間こそ、反復から逃れた空白地帯のように思えてきてならない。彼女の提示したかった忘却への抵抗は、非現場となった現場(=所沢)に求めるべきではなかったか。

 

中川翔太の「ポルターガイスト」は自室内で発生する照明の点灯やゴミ箱の転倒といった心霊的映像の中央に別の画面が挿入され、即座に種明かしされるという構造を持っている。他作品とは対照的にミニマムな印象をもつ作品である。ここで作品構造そのものの種明かしをすれば、心霊現象と種明かしの映像の操作は連結しておらず、別々の操作が加えられている。そのために厳密には「種明かし」の真意自体が種明かしを必要とするという宙吊り(=種のない種明かし)状態にあると言えるだろう。中央の映像によって「種明かし」された現象だけが、種を事後的に仮構し得ること。これが中川の言う、映像の持つフィクション性なのかもしれない。もちろん、これはポストトゥルースにも通じる時代感性である。


小林真行の「テンポラリ_ファイル」は、蛍光灯の人工的な白光の元、塩やバクテリア、酸素などの自然物によって、人工物である写真表面のイメージが剥離していく過程を示した作品である。かつての現在=過去を記録した写真がその時制の根拠である被写体のイメージを失うことで脱臼された現前性を、小林の言葉を借りれば、超越的な「宇宙の外側の観察者」へと提出するという。写真という一つの「メディウム」への徹底した思考は本展の中では随一と言えるだろうし、フィルムや自然物の多用と脱人間的な視点の想定は現代の唯物論との共鳴を思わせなくはない。
ただ、これは前述の下山、有地にも共通する問題として、作品がインスタレーションではなく、イラストレーション、つまり文字どおり、図示的なものに終始していることは否めない。抽象的なコンセプトを分かりやすい機能を持った諸要素に落とし込んだところといった印象である。したがって、例えば、下山の読み上げ「音声」、有地のレール上に張り巡らされた「壁紙」、小林の「鏡面」上の写真(フランシス・ベーコン)などのコンセプトの余剰の方に個人的には注目したい。

 

長谷川祐輔のデザイン画と絵画が混生した作品群「誰が見て誰が聞くのか」は、一見すれば雑多な試みのようでもあるが、渋谷パルコでの一連の「絶命展」にも共通する「服の終わり」=死の形をテーマとしている。私は以前「絶・絶命展」のモデルとの会話の中で、以下のようなコメントをした。
「生を一旦「殺す」ことが重要ってことですね。生を殺し、死に。そして、そこからの「蘇生」。何となくリセット的なイメージを感じるのですか、でも本当は誰も「死ねない」し「殺せない」んじゃないかって思うんです。そんなにきれいに「リセット」できるのかなって。」(2015.3.3)
長谷川の葛藤が逆説的に示すのは「服の死ななさ」でないか。服が何度でも、亡霊のように、絵画を描く長谷川の筆に乗り移ってくる執拗さ。死なない服の、歴史の亡霊たちの回帰との対話は、それが常に中途であり続けることを踏まえた上で、作家の誠実さの現れであると言えるだろう。

最後に、五十嵐五十音の「人を尊敬するための装置 」は潔癖症的健康へと邁進するマジョリティーに対する猫騙し!あるいは盛大なメメント・モリ的なボケをかました、多分に挑発的な作品である。実際のレントゲンの照明器を床に10数個つなげた巨大キャンバスに透明シートを重ねて、その上に内臓の身体と骸骨の身体を等身大に黒いインクで滲ませながら描いている。横たわる肢体は埋葬/棺桶を思わせると同時に、照明の白い発光はダン・フレイヴィンにおけるモダニズムと宗教の遭遇を、そして悲劇的な最期を迎えた化け物にも見える肢体は五十嵐が好んで読むという「ヨブ記」における悲劇的な滑稽さに繋がる。アイロニカルにも、健康志向=マジョリティの陰に葬られた、前近代的で魔術的/宗教的ないかがわしさが、かえって私たちの健康概念の浅薄な危うさを逆照射している。その意味で本作は真にホラーなのである。
 
長谷川の絵画(壁)と五十嵐の人体像(床)は共通して「死」をテーマとしながらも、身体の外側と内側という対比から、本展において唯一、キュレーション(というより素朴に配置)の妙が感じられた空間であった。言い換えれば、Aグループとの差異でもあったはずの「キュレーション」がその他に発揮されていないことは、やはり選抜制度とも相まった、作家=キュレーターという立場の難しさの現れなのかもしれない。