よわいめ|ヨワイメ

同時代カルチャーをレビューするブログ

新芸術校グループA「其コは此コ」展

 

 いきなり本題に入る。というのも実際の展示がそうなっているからである。胎内を思わせる龍村景一の暗室とよひえの個室トイレにおいて、私たちは二度、誕生する。初めに黒いカーテンをめくり入る暗室。裸の男が海へと飛び込む瞬間を何度もループし複数化する映像は、海への飛び込みを遅延させ続け、最後に反響する「ポチャン」という音だけがその入水を知らせている。三途の川ではない海への入水は、古代、海から陸上へと生息地を広げた人類の祖先である生物の旅路を逆から辿る、いまここから生まれた場所への回帰、生まれ直しへの欲望である(龍村の前作、小学女児並みの言語能力を持つ人工知能を演じる《脳ん》にも通じる趣向であろう)。映像が終わると、文字どおりに鑑賞者はカーテンを開け、暗闇から懐かしい眩しさとともに裸の私として、本展に生まれ直し、再入場をすることになる。これが種の起源にまで遡る一つ目の誕生である。鑑賞者はそのまま右手に進むと即興風に線の踊る抽象装飾画に覆われた個室トイレという母なる胎内へと吸い込まれていく。暖かな色彩に包まれた風景をかつての私が見ていた母内の風景に重ね合わせると同時に、その聴覚は外側から聞こえる社会の剥き出しの音に晒されることで、すでにここが安全圏内でないことを直感する。母であると同時に、母でない可能性を予見する私。これが二つ目の母ならざる私の誕生である。

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 二つの胎内から出産された赤ん坊はやがて少年となり、母をめぐる両義性-生まれた場所(其コ)といまいる場所(此コ)の埋められない溝を発見し、その深い悲しみの代わりに、今度は母-子ではない「友」を探し得る。それが友杉宣大の猫である。どこか遠い雪深い街で猫がソリを引き、テントで宿り、冒険を続ける物語を描きながら、ついに猫の眼球は宇宙へと反転し、夜空に輝くスターニャンに生成変化する。近しく親密的な猫と遠い街を仲介する星の導入ははっきりと「僕は猫である」と言う友杉の「此コは此コである」にも似た同語反復的な迷宮へと陥りかねない擬似的な自画像制作において、不思議な光明を招き入れる結果となっている。それは星の現存と少年の水晶体への光の到達が、ほとんど永遠と感じられるほどの時差を包含しているという事実である。つまり、スターニャンの登場は近しい猫と遠い街の空間的な遠近を時間的なもの(=時差)へと変換させたのである。光の到達が星の現存ではなく、不在をも同時に意味することを描くこと、それが猫の向こう側を見通す理路なのかもしれない。最新作において、残像のように薄く浮かび上がるスターニャンの表象はおそらく、その予兆であるはずだ。この視点からすれば、自分の居場所を掘り下げるたびに、反比例的に塗り重ねられる複数のメディウムのうちに、原始の生物形態がまさに化石発掘のように出現しつつあるよひえの抽象絵画は、友杉のスターニャンとは反対に、時間的な遠近を空間的なものに変換する作品であると言えるだろう。

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 この三作家の紡いだ誕生秘話を会場の一番奥で引き受ける壁画的な作品が中村紗千の《怪獣と迷宮》である。以前より、中村は友杉の猫との同一化へ向かう関係性の結び方とは異なり、親密感とも嫌悪感ともつかない関係を取り結んでしまう他者像を「流動的でモザイク状(=タイル)のかたまり」である「怪獣」に代えて描いてきた。本作においても、紙に墨で描かれた怪獣のアイコンが鑑賞者の視線を、マックス・エルンストを思わせる浴室のタイルを全面の基底としながらも、多数的な空間と錯綜した時間軸へと誘導している。その中でも新奇なモティーフである円状のレーン上の怪獣はなかばナメクジのようにゆっくりと進行している。中村の絵の時間は最初に目にした龍村のカチカチと切迫した映像とは対比的に「のろのろ」としているのだ。その遅さは迷宮に迷い込んだ人間の足取りの重さを思わせるところがある。ここでタイトルを思い出してみれば、その定義上、其コを此コに、此コを其コに、常に反転させ続ける特殊な空間である迷宮とは、本展の歪んだ時空間そのものであり、そこに迷い込んだ人間とは紛れもなく鑑賞者のことを指し示しているのではないか。だとすれば、私たちがのろのろとしたその足取りにあの「怪獣」の姿を重ね見ても不思議ではないだろう。こうして、二度の誕生を経て、猫という友を経た私たちは、中村の作品において、自らの鑑賞者としての主体像を顧みるのである。

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 最後に本展全体を通して見えてくるのは、四者四様に「未成熟さ」の問題系を扱っていることである。龍村は裸の再誕、よひえは子の誕生、友杉はフィクショナルな猫への同一化、中村はアイコン化した怪獣。言い換えれば、自らの主体(身体)像がどこかで未成熟で幼児的であることへの意識が色濃く反映された展示にも感じられたということだ。その意味において、作家自身の身体イメージがどこまで作品化されたのか、その判断によって本展の評価は下されるのではないだろうか。