ポップなき時代にポップを探して

 

本書はポップなき時代のポップの意味について、美術の領域から迫っていくことを目的としている。

第1章 ネオポップとマイクロポップの時代————————————————————————————————————-

                  ——————–ポップなきポップ——————–

 かつてこの国には、ポップカルチャーが存在した。それは80年代に象徴される、人々がマスメディアを通じて、同じもの鑑賞し、同じものを消費し、同じ体験を欲望する、そのような同時代的な共通前提をもった大衆が存在した時代である。ポップカルチャーが一義的に「大衆的な文化」を意味するとすれば、1984年に出版された田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に描かれる、バブル景気に支えられた「ブランド」主義が機能した80年代こそ、その意味でのポップが最も高らかに成立した時期と言えるだろう。美術業界に目を向けてみても、バブル景気を背景とした地方のハコモノ美術館の建設ラッシュ、そして山梨県立美術館の「ミレー」購入、安田海上火災(現損保ジャパン)のゴッホ「ひまわり」の53億円での落札など一点豪華主義=ブランド主義の傾向は枚挙にいとまがない。すなわち、疑いなく「もはや戦後ではな」くなった、80年代とは、ポップカルチャーを可能にする大衆の時代であり、その最後の輝きを放った時代であったということができるだろう。

 あれから30数年、大衆をめぐる状況は様変わりした。田中が『なんとなく、』のあとがきで、「昭和54年度厚生行政年次報告書(昭和55年度版厚生白書)」を参照して、「少子高齢化」による消費社会を支えた若者文化の衰退をすでに予見していたこと、さらには、それから91年に始まるバブル経済の崩壊を経て、「ポップ」たるカルチャーは徐々にその姿を消すことになった。一億総中流の幻想は、失われた20年とも呼ばれる長引く平成不況が明らかにした経済格差の広がりによる中間層の分離とインターネット環境の全面化による文化的な断絶によって崩壊した。この経済的にも文化的にも分断化された大衆の状況は言い換えれば、社会学者の宮台真司が「島宇宙化」と呼ぶ、社会の個別化、クラスタ化を意味する。したがって、いまポップと呼ばれるものは、それが単なる80年代へのノスタルジーでないとしたら、ひとまず、それは島宇宙化を前提とした、大衆なきポップと呼ぶべきものである。

 大衆なきポップ、それは80年代のポップカルチャーでは指し示すことのできない何物かである。ポップなき時代のポップ。いま問われなければならないのは、2010年代、現在における「ポップ」の意味の自明性そのものである。第1章ではそのようなポップなきポップを前提として、まずは1980年代以降の90年代と2000年代において、主に美術の領域に現れた二つの「ポップ」(具体的には80年代アメリカのシミュレーショニズムの影響を受けた日本の「ネオポップ」、そして「マイクロポップ」)の意味を確認した上で、2010年代、3.11を経て現れた二つの「ポップ」なアート/カルチャーの条件について考察していく。

 

                   ——————–ポップの系譜——————–

 私たちは80年代という強力な磁場から離れた脱領域的なポップの意味を見出さなくてはならないのだが、おそらく、その上で最も深い射程の元にポップの意味を策定したのは、意外にも美術評論家の椹木野衣である。主著『日本・現代・美術』(1998年)において、アメリカによって占領された政治的無風状況(核の傘の)下に、国際的にも稀にみる経済、文化の両面で繁栄した場所=日本のことを敗戦という「暗い」動機に支配された「悪い場所」であると評した椹木は、ポップを単なる美術史上の一様式としてではなく、ポップ的な心性という抽象化した観点から分析することで、そこに戦後日本美術とポップの根深い共犯関係を浮かび上がらせようとする。『日本・現代・美術』の序盤部で提起した、反映のポップに対する還元のポップがそれにあたる。

 「彼らは、自分たちの生が拘束されている「いまここ」の成立する条件を提示することにおいてこそ、「ポップ」 たりえたのであったし、それはけっして「反映」などではなく、「還元」と呼ぶべき性質のものだった。(中略)バブル崩壊以後に現れた「還元」のポップは、そうした「暗い動機」にもとづくものである[i]

 椹木は1980年代のアメリカ美術から同時代的に伝播したシミュレーショニズムを文化的な前提におきながら、90年代にかけてデビューした60年代生まれの作家たち、具体的には村上隆、中原浩大、ヤノベケンジの三人をひとくくりに「ネオポップ」と名付け、彼らの作品を日本の特殊な前衛のもつ歴史的な発展ではない反復性を判断留保し、認識させる「還元のポップ」として評価している。高度資本主義、成熟した消費社会におけるイメージの氾濫をそのまま反映したアメリカ式のポップではなく、プレモダンな土壌の上で仮想のモダンゆえに空転する「前衛」の反復性とポストモダン(シミュレーショニズム)の奇妙な共存状態を白日のもとにさらすことで、戦後日本美術、さらには明治期までに遡る、近代なき日本の「近代」美術の滑稽さを露呈させるのだ。椹木はこのような「悪い場所」を脱することではなく、あくまでも「判断留保」し、「認識」することの重要性と困難さを繰り返し強調する。ネオポップとはその困難な認識に成功した稀有な例なのである。

 三人の作家たち、特に村上隆を擁護した理論的な後ろ盾がネオポップだとすれば、それから遅れて1995年、わかりやすく言えば、奈良美智擁護として提出されたのが、松井みどりによる「マイクロポップ」である。松井によれば、マイクロポップとは1995年から2006年の約10年間に出現し、実践された新しいタイプのポップである。その概念としては、哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「マイナー文学」定義と歴史学者ミシェル・ド・セルトーの「日常性の実践の戦術」理論に由来しているのが、詳しい意味については引用を確認しよう。

 マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作りだす勢を意味している。それは、主要な文化に対して「マイナー」(周縁的)な位置にいる人々の創造性である。(中略)彼等の物質的欠如や社会的に弱い立場を想像力の遊びによって埋め合わせようとする[ii]

2007年に水戸芸術館で開催された「マイクロポップの時代-夏への扉」展に際して提出された宣言文の一節である。本展には奈良美智を年長として、70年代生まれの作家たち、泉太郎、杉戸洋田中功起らが参加している。彼らに共通する特徴は「子供性、社会的な匿名性、経済力の欠如」という社会的に不利(マイナー)な生活条件にあるということだ。それは「大きな物語」に代わる芸術の基盤を、ささやかなものの寄せ集めによって仮設的に構築する、ポストモダン生存戦略である。また松井によれば、マイクロポップとはマイクロ・ポリティクスでもある。89年の冷戦構造の崩壊に平行して、同年にポンピドゥーセンターで、早くも開催された「大地の魔術師たち」展に象徴される第三世界と国内の社会的少数者の社会的包摂、一般にマルチカルチュラリズムと呼ばれる動向の一形式、つまり、マイノリティ・ポリティクスの美術的な言い換えがマイクロポップなのである。ここで、マイクロポップとはポストモダン状況における「世界」的同時的、ポリティカルなポップであるということができるだろう。しかし、同じように日本人作家の作品にもそのような政治性が感じ取れるかは疑問である。なぜなら、美術動向と政治が接近しては無関連化されるという事例が例えば、1941年瀧口修造と福沢一郎が政治犯としての検挙を免れるために、シュルレアリスム共産主義を無関連であるとした「シュルレアリスム事件」、またよく知られたところでは、赤瀬川原平の「千円札裁判」において弁護側に立った三人の美術評論家中原佑介針生一郎宮川淳の「政治とは切り離された、芸術は芸術である」という反芸術の前提すら、かなぐり捨てた弁護によって、自ら芸術と政治を無関連化してしまった先例があるからである。このような歴史を踏まえれば、日本のマイクロポップをむしろ政治性以外の側面から捉える可能性が浮上する。それは簡単にいえば、90年代のインターネット化と島宇宙化(宮台)との関連であるし、さらに宮台用語を援用すれば、95年に最後の盛り場、渋谷を失った若者たちの<地元化/お部屋族化>の開始がマイクロポップと重なる96年以降であることから、90年代に20代を過ごした「マイクロポップ」な作家たちをそのような若者文化の変遷の一形式として捉え直すことができるはずである。付け加えれば、2006年以降のツイッターニコニコ動画ピクシブなどのSNS、イラスト共有サイトの普及によって、「マイクロ」の意味するマイナーで私秘的な空間単位の変化が、その後のマイクロポップの展開に大きな影響を与えることになる。

                   ——————–2010年代の幕開け——————–

 ゼロ年代と呼ばれたこの十年、日本のアートは何も生み出さなかった」というカオスラウンジ宣言による全否定に幕開けした10年代は、すぐさまに、そのようなアート界内のポジション争いを全否定する、一つの困難な断絶に直面する。それは言うまでもなく、2011年3月11日、太平洋沿岸を震源地とする地震津波、そして原発問題を引き起こした東日本大震災である。震災後、芸術には人々を結びつけ、ともに共同体を再生することが第一義的に求められた。伊東豊雄の「みんなの家」や山崎亮の「コミュニティデザイン」など建築側からの素早い対応が象徴的である。それらはコミュニティ、リレーショナル、ソーシャリー・エンゲージドと形容される社会活動に限りなく近づいた芸術形式である。そのような状況のなかで、一見すれば、不真面目で趣味的なアニメキャラクターや二次創作に依拠する作家、作品群は数年の間、喪に服すこととなった。

 震災後に要請された社会的な芸術とは震災の当事者、マイノリティの人々を含めたすべての人を「包摂」可能にする(リレーショナルな)コミュニティアートであり、それは脱政治化したマイクロポップと言い換えることができる。政治学カール・シュミットを参照して、政治を友と敵を分けるものと簡単に定義するとすれば、脱政治的とは友と敵を分けないものと定義できる。互いの敵という対立項には目を向けず、連帯可能な部分においてのみ、友として友愛を構築すること。これが大雑把ではあるが、「脱政治」の意味するところである。もちろん、いわば友友理論とも呼べる脱政治的(リレーショナル)なアートに対して、真の民主主義を生み出すための「敵対性(ラクラウ、ムフ)の契機」(ビショップ)があらかじめ排された安定的な共同体を前提としてることへの批判などがすでに寄せられてはいる。しかし、友友理論の実践とマイクロポップの傾向がゼロ年代に第一回開催を迎えた三つの芸術祭、越後妻有トリエンナーレ(2000年)、横浜トリエンナーレ(2001年)、瀬戸内国際芸術祭(2009年)を先行モデルとして2010年代に爆発的にその数を増していく地方芸術祭にも敷衍可能なことを考えれば、その10年代へのきわめて高い適応性と社会的評価の高さを知ることができるだろう。実際に後世から見れば、2010年代の日本の美術状況は「震災からの復興と地方芸術祭の時代」と歴史化されることなるに違いない。

 ただし、問題はそれらはすべての人々に開かれた形式上のマイクロポップであり、その内実、内容の質は不問に付されていることにある。内実としてのネオポップやマイクロポップがいかに継承され、展開されたのか、という内的な検証はことごとく見過ごされている。またそれに耐えうる作品をこのような風潮の中で指摘することも難しいように思える。しかし、私たちはそろそろ、その形式ではなく、内容に対する批評を例えば、2016年「シンゴジラ」、「君の名は。」、「この世界の片隅に」の3本の映画がフィクションの側から震災を乗り越える想像力を提起したとすれば、2017年のアートはポップの名の下で、何を提起しているのか、過去との比較において吟味し、語るべき時期にきているのではないだろうか。

                  ——————–新しいポップの可能性——————–

 作品の枠組みや形式ではなく、内容と質において、90年代から2000年代のポップを独自に継承、展開させることで、10年代の新しいポップの想像力を照らす展覧会を紹介する。それは現代アーティストのChim↑Pom(チンポム)の「還元」的なネオポップにも見える「また明日も観てくれるかな?」(2016年10月)と「道が拓ける」(2017年7-8月)である。

 「また明日も観てくれるかな?」は、1964年の東京オリンピックの5か月前に建設され、そして次なる2020年の東京オリンピックに向かって解体されるまさに「スクラップ&ビルド」を象徴する新宿の歌舞伎町商店街振興組合のビル一棟を舞台として開催され、その内部空間はゴードン・マッタ・クラークの作風を思わせる吹き抜けを中心にして各階に、これまでのチンポムの作品をダイジェスト的にまとめた構成になっている。そこでは戦後復興期、1964年の東京オリンピックへ向かう過程と、あの震災からの復興期、「東京オリンピックまでに」というスローガンのもとに進められる東京の建設ラッシュを重ね合わせられている。戦後復興と高度経済成長を支えたビルとチンポム自身の作品史を物理的に解体し、一からビルドし直すというコンセプトと実践は正確に成功したように思えるが、その成功が、マスタープランなき東京のスクラップ&ビルド(増殖性)を自らの身(作品)を持って、再演し破壊することで、2020年に向かって反復される事態を「判断留保し、認識させること」に由来するだけであれば、それは単に「還元」的なネオポップの繰り返しに過ぎないことになってしまうだろう。ただし、それはビル解体後の風景が椹木の言う「ゼロ地点」か、あるいは村上隆の「スーパーフラット」な地平だとすれば、の話である。

 現実にチンポムが解体跡地に見たものは紛れもなく、コンクリートの破片であり、立ち込める砂埃であった。決してゼロにはならなかった地平、津波に襲われた被災地の風景が思い浮かぶ。ゼロから立ち上げる設計主義的なビルドでは、到底ありえない場所において、私たちは、1から、あるいは0.5、あるいは数字未満の存在と共にすでにありながら、それらを組み合わせ、ブリコラージュすることで、芸術の場を一時的に確保することができる。それはスクラップ&ビルドを「バラック」として読み替える想像力である。そして、このようにチンポムが自らの作品史とともに解体したビルの残骸からもう一度、バラック空間を作り上げた展覧会が二つ目の「道が拓ける」である。ランドマーク的に設置された80年から90年代の消費社会を象徴する渋谷パルコの電飾看板は確かに、ネオポップの残り香を漂わせるが、その基盤となる地下には、あのビルの残骸が埋まっている、つまりそれはバラック建築と呼ぶべきものなのである。(「バラックアウト」展を想起してもいい)しかし、ここでバラック・ポップなどというのは安易すぎるだろう。「Don’t Follow the Wind」を一つの補助線としよう。

 チンポム発案の帰宅困難区域内における国際美術展「Don’t Follow the Wind」は展示空間そのものには現在立ち入ることができないためにサテライト展をワタリウム美術館や今年の横浜トリエンナーレで開催している。これはランドアートの文脈において、ロバート・スミッソンのいう「サイト(=帰宅困難区域)」と「ノンサイト(=サテライト)」にあたる展示構成である。このサイト、ノンサイトの図式を先ほどの東京での二つの個展に援用するならば、「また明日も」では、歌舞伎町ビルは新宿のスクラップ&ビルドの歴史を負ったサイトであり、その内側はチンポムの自作品のサテライト展示(ノンサイト)である。「道を拓く」はこのサイトとノンサイトの重ね合わせの場を解体することで成立し、今度はそのバラック建築そのものが「また明日も」のサテライト展示(ノンサイト)になっている。つまり、整理すれば、チンポムが最新の個展で示したことは、かつてのサイトであった歌舞伎町のビルの破片によって構成されたキタコレビル(ノンサイト)のバラックにおいて、かつてのサイトのサテライト展(ノンサイト)を行うということである。バラック地点に立ち上がるノンサイトは、かつてあった場所、あるいは立ち入ることのできない場所がゼロ地点ではありえないことを私たちに想像させる。それはゼロ地点を認識させる「還元」的なネオポップの外側にむかう想像力であり、広島の空をピカッとさせた自らの作品をも乗り越えうる、震災後の一展開であった。

 ひとまず、チンポムの例から、2010年代のポップを可能にする想像力の一つの条件はバラックとノンサイトの二重性にあるとしておく。しかし、乗り越えるべきポップは「還元」的なネオポップだけではない。続いては、マイクロポップ的にも思われる藤城嘘「ダストポップ」展(2017年)を二重性の観点から分析することで、さらなるポップの可能性について考察したい。

 

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[i] 椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年、51頁

[ii] 松井みどりマイクロポップ宣言」2007年、(http://www.arttowermito.or.jp/natsutobira/natsutobiraj.html