近代絵画を成立させる精神の根源にまで遡るとすれば、シャルル・ボードレールの定義するモデルニテを体現したエドゥアール・マネ、燕尾服の喪に近代を見たギュスターブ・クールベ、あるいはロココ期、貴族の遊び場に大衆扇動を喚起するアンソールの仮面の浮遊と礼拝的価値を失った絵画の宙吊り状態を重ね合わせたフランシス・デ・ゴヤ、主に18、19世紀あたりに、その誕生を策定することができるが、より根源的に、近代を彩る花の色や形にではなくその根元に、すなわち地層深くに何千年という超現実的な時間を要して生成される深成岩のような根源にまで、近代に囲われた私たちの目を向けるならば、そこに映る植物的な鉱物は14世紀イタリア、ジオット・ディ・ボンドーネのあの青い絵画ではないだろうか。

 

 ギリシア様式(新ビザンティン様式)を「解凍」し、踏襲したドォッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(1255頃-1319以前)のゴシックとビザンティン要素の異花受粉(H.W.ジャンソン)による新しい絵画空間の萌芽を開花させ、のちのルネサンスを準備した画家がジオット(1267頃-1337)である。鍛冶屋の息子として生まれたジオットが中世様式をまさに鍛冶が司る錬金術的な変性効果によって、近代絵画の根源に策定されうる謂れは1305年から1306年に制作した、パドヴァのアレーナ(スクロヴェーニ)礼拝堂内部の装飾絵画に求められる。ジオットはスクロヴェーニ家の礼拝所兼墓地として建てられた、ロマネスク様式の礼拝堂の簡素な外壁とは対比的な内壁の装飾絵画を全面担当している。37の場面から構成されるキリスト教絵画群は、その受胎告知と聖母という主題の伝統性の外枠の内に古代中世のイコン的な想像力は根本的に異なる三次元の絵画空間が造形されている。ルネサンス期レオン・バッティスタ・アルベルティやピエロ・デッラ・フランチェスカらによる数学的な線遠近法ではないものの、ここでジオットは天上の神と地上の信者を直結させるイコンの条件である超越と現実との距離の零度を初めて引き離し、双方の間にある自律した空間を打ち立てることに成功した。根源にして、絵画とは神と人間の間に設けられた中空空間であったのである。

 もちろん、現在の美術史研究が明らかにするように、ジオットは特異点ではありえない。おそらく初期においてはローマの画家たちのモニュメンタルな新ビザンティン様式古代ローマと初期キリスト教美術の壁面装飾の影響)、古代彫刻、そして何よりも作品全般にわたっては、イタリア・ゴシック彫刻の始祖ピサーノ一族を介した北方ゴシック美術の影響が最も重要である。建築的な枠組みではなく、人物の配置と重なりによる画面造形のモニュメンタルな彫塑性は例えば、1220年頃、ストラスブール大聖堂南袖廊扉口ティンパヌムの石造彫刻《聖母の死》の影響、さらに遡れば12世紀半ば過ぎ、ムーズ川流域地方に現れたニコラ・ド・ヴェルダンの《クロスターノイブルクの大祭壇飾壁》に見られる装飾的な文様から脱却した三次元的な衣の襞表現に端を発している。

 

 再び、スクロヴェーニ礼拝堂内部に目を向けてみれば、一連のフレスコ画における新しい空間把握の術は最高傑作《哀悼》一枚を見れば事足りるだろう。画中、十字架から降ろされたキリストに抱き添える聖母マリアと光背をつけた弟子たちの視線は、鑑賞者の目をも誘い、死せる救世主の顔に引き寄せられていく。こちらを背にして、キリストよりも前面に座る人物から幾重にも重ねられた人物のヴォリュームだけが画面に漂う親密な奥行空間を鑑賞者に知らせる。そして画面左にはその仮面のうちに無関心を隠しもつかもしれぬ、顔を隠したアノニマスな大衆すら描きこまれている。

 では、誰が真に哀悼を捧げているのか。ある人間の死の事実を確かめる医者の顔にさえ見えるマリアの表情は、何を喪失したのかを知りえないものの喪失の表現に近いだろう。フロイトがメランコリーと名指す「所有不可能なものの喪失感」を感知させる表情である。本来、所有不可能な(神の)息子=イエス・キリストの死とはそのような絶対的な否定性を介して所有されるという憂鬱、メランコリーであるはずである。すなわち、本作は多分に中世的な学識をもとにした近代の「喪の作業」の根源ともいうべき絵画なのである。

 メランコリックな人間劇を見せる前景が絵画の舞台上だとすれば、ジオットはその絶対的なフィクションを出現させる背景として「青」を全面展開した。聖なるものの出現と青を結びつけて、「青」の美術史を批評的に紡いだのは小林康夫であったが、思えば、彼はもう一度だけ、20世紀アルベルト・ジャコメッティの彫刻制作に対して「出現」という言葉を当てている。パウル・クレーの絵画理論における灰色の中心性(『造形思考』)に象徴的な20世紀美術史の一つの経脈(クレー、ジョルジョ・モランディ、フランシスコ・ベーコン)にジャコメッティも必然的に招き入れられるとすれば、今度は出現と結びつく色は灰色、埃に透かし見る半透明な美である。物と物の明確な輪郭をなしくずし、媒介作用そのもののうちに融解させていく灰色=埃の美学に対して、ジオットの青はむしろ、神聖な世界と人物劇あるいは鑑賞者の立つ現実空間を明確に切り分ける切断面であり、このような神と絵画と人間の領分を切り分ける作業こそ、イマニュエル・カントの『判断力批判』において、モダニズムが産声をあげた場所と言うことができるだろう。

 ヴェロニカの聖顔布に由来する神と人間を直結させるイコン的想像力とは根本的に異なるジオットの想像力はナルキッソスの覗き込んだ水面であり、鏡のモデルである。接触によって誕生するヴェロニカの布に対して、接触によって消滅するナルキッソスの水面は、神とも人間(鑑賞者)とも一定の距離を取ることで、視覚にのみ依拠した純粋な絵画形式となる。その点からいえば、古代から伝来する水面に映るかのように写実的な自然描写は、ナルキッソスの神話における表層のなぞりに過ぎないだろう。ジオットが真に革新的であるのは、水面・鏡モデルの根本的な理解によって、神と人間の間に中空空間を誕生させた近代的な想像力の発明にこそあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考文献>

・H・W・ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン『西洋美術の歴史』

 木村重信、藤田治彦訳、創元社、2001年

パウル・クレー『造形思考』上下巻、土方定一、菊盛英夫、坂崎乙郎訳、

 ちくま学芸文庫、2016年

小林康夫『青の美術史』ポーラ文化研究所、1999年

大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか』青土社、2005年