『草の上の朝食』論 – スキャンダラスな「喪の作業」として(批評再生塾初出)

 

「反復は、けっして飽きのこない、いとしい女房である。というのは、飽きるのは、新しいものにだけ飽きるのである。古いものには、けっして飽きがこない。そしてそのようなものが目のまえに、あってくれると、ひとは幸福になる」(セーレン・キルケゴール『反復』(1834年))

1:小説の不自由さ

 保坂和志は数々のエッセイの中で、客観的かつ科学的な言説と比較したうえで、極端に超科学的な(なんでもあり)でもない、中途半端な「現実の気分」を表明してしまう、小説的な言説の曖昧さを自らの欠点と認めており、同時にそれはほとんど小説という芸術表現のもつ一つの欠点であるようにも思われる。ここでクレメント・グリーンバーグ流のモダニズムが芸術ジャンルを規定する不自由さを芸術表現へと再帰的に転換する要請であったことを想起すれば、保坂の小説の不自由さはそのまま小説の自由さへと転換されるのではないだろうか。無意識のうちに、私たちはその転換の瞬間を見逃しているのかもしれない。おそらく、モダニズム的な転換はすでに初期作品に見え隠れしている。例えば、それは『草の上の朝食』においてである。だが、まずは具体的な作例を分析するより前に、冒頭に示した「科学的」と「超科学的」という言葉の保坂流の理解をまずは確認しておく必要があるだろう。

 保坂は光の速度や神経細胞の働きなどの、人間の生の感覚では知りえない情報を提供するまでに発達した学問領域が現代科学であると度々述べている。現代科学とは人間の五感では知りえない情報を理解可能にする学問、言説の一種であるとした上で保坂は、科学の発展による世界認識の変化を記述する二つの方法を示している。1つ目は生の感覚をもとに、内なる想像力を駆動させて記述すること、2つ目は生の感覚では知りえない、世界(自然)に対して、「自分自身の想像力を別の形に組み直」し記述することである。保坂は特に後者ついて記述しようとするが、それより先の議論については幾つかの補助線を提起するに留まっている。対して、超科学の方は端的に科学的な実証を一切無視したフィクショナルなもの、具体的にはファンタジーや幻想小説に見られる、なんでもありな言説を指していると考えられる。科学と超科学、保坂はそのいずれにも属さない「現実の気分」を捉える言説を小説の領域として策定しようとする。

 小説家の立場から科学的な説明原理とは距離を置きながら、その対極にある「なんでもあり」にも足を踏み入れず、その中域に靄のように漂う、生活空間とそこに住まう人々の「現実の気分」を、小説の説明原理として据えること。まさにそれを主題として扱った小説が第15回野間文芸新人賞を受賞した『草の上の朝食』である。以下では本作を通して、「家」という物理的な存在と宙ぶらりんな関係を結ぶ登場人物と猫の織りなす「現実の気分」描写について考察していく。

2:『草の上の朝食』

 グリーンバーグモダニズムの起源に制定したエドゥアール・マネの代表作《草上の昼食》(1863年)へのオマージュを感じさせるタイトルはすでに、本作がモダニズムの理論における小説の不自由から自由への転換とそれに伴うスキャンダルを予言していることはまず察知しておくべきである。

 『草の上の朝食』は前作『プレーンソング』と同様に、小説の中心を貫く物語は設定されておらず、複数人の若者が銘々に、ただし、ある一室で半共同生活を送る日々が、推敲を感じさせないほどに自然な会話を通して、叙述されている。前作からの変化としては、主人公「ぼく」と工藤さんとの恋愛未満の恋愛模様を挙げることができるが、小説全体からすれば、それもわずかな差異に過ぎない。むしろ、注目すべきは保坂の小説に、よく指摘される通り、彼らの共同生活を可能にしている「家」という空間である。本作においても抜かりなく、登場人物を集合させ離散させる共通の場として、日常空間を意味する「家」が設定されている。世代を経たとしても、常に誰かにとって日常を営む場であった空間。そのような日常空間を舞台として、立ち現れる雰囲気を保坂は「現実の気分」と表現するのである。

 「現実の気分」を生成する場である家=日常空間における領域策定あるいは、その科学的や超科学的な領域を逃れる脱領域的性質についての先行言説はアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンに求めることができる。彼は『世界制作の方法』(1975年)の中で、世界を説明する科学的理論は同時に複数成立可能であるがゆえに、世界制作には複数のヴァージョンが存在することを指摘し、それは日常世界においては藝術作品のヴァージョンとして立ち現れることを強調している。このような複数性を示すヴァージョンは唯一の実在を必然的に否定する非実在論に近接するのだが、グッドマンはその立場から、実在とは無関係に完結した世界観の水平的な敷衍によって、生み出される無数の可能世界論を、それもまた別種の実在論であるとして批判している。彼の図式に従えば、実在論と可能世界論は同構造をもつ理論であることが明らかとなり、これは科学と超科学を同時に退ける保坂の小説論に適用できる可能性を示唆している。つまり保坂の日常空間における「現実の気分」描写はグッドマンの日常世界における例えば、藝術作品の複数のヴァリエーションに重なるというわけだ。しかし、 では、保坂の「現実の気分」描写に相当する複数のヴァージョンの同時存在とは実際には、どのような状態を意味するのだろうか。複数のヴァージョンとは言い直せば、それぞれが弁証法的により高次の一貫性へと統合されることなく、お互いの内的な一貫性をそのまま保持させて存在する状態のことである。つまり、それぞれがそれぞれの論理に従って、同じ作動を繰り返すという離散的なモデルである。おそらく、このモデルは『草の上の朝食』においては、登場人物の立ち振る舞いとして、つまり、彼らの個々の存在を物語における複数のヴァリエーションとして見ることを可能にしている。というよりも、登場人物たちは新しい出会いによって成長、発展するのではなく、それぞれが一つのヴァリエーションに過ぎないことこそが重要なのである。それは『草の上の朝食』が前作『プレーンソング』の続編ではなく、一つのヴァリエーションに過ぎない趣向をもっていることとも重なるだろう。

 一つのヴァリエーションに過ぎない登場人物たちの存在は、保坂が本作を書く動機としてはっきりと述べている「反復」と少なからず関連している。それは日常と非日常を区別する「反復」性である。ここで言われる保坂の「反復」とは、前述のヴァリエーションという観点から見てみると、共同生活が毎日、反復される、変わらない日常の気分という大雑把な意味でなく、より具体的に登場人物たちの内的な一貫性に基づいた、繰り返しの行為のことであることが判明するはずである。ぼくがぼくのままであり続けるように、島田もアキラも工藤さんも互いに交わりつつ、終始互いに変わらないままであり続けるという反復である。しかし、そうだとすれば、「現実の気分」とも言い換え可能な、繰り返しの行為、「反復」は結局のところ、保坂の小説にどのような効果をもたらしているのだろうか、最後に問うてみたい。

3:喪の作業

 保坂がそれぞれの登場人物の変わらなさを「反復」という言葉によって抽象化するのであれば、日常とは反復のことであるという、ありきたりな文句よりも、そこに「喪の作業」との類似を指摘するべきであろう。なぜなら、毎朝、仏壇に線香をあげ手を合わせる、あるいは一年の決まった日に墓参りをするといった、失った身近な人間を弔う行為、喪の作業は古くから反復を伴って行われてきたからだ。『草の上の朝食』に限らず、保坂の小説には個人の生き死にの問題、もっと直裁に言えば、死の影が感じられないことが指摘されてきたが、驚くべきことに、保坂の小説の中心に位置する日常の「反復」こそ、死を想え、「喪」を象徴していたのではないだろうか。それは「ぼく」と工藤さんとの間に繰り返されるセックスであっても同様である。彼らのセックスには死の欲動に従う、臨死体験と言えるほどのエクスタシーを伴ってはいない。そうではなく、その繰り返されるセックス描写は反復のうちに示される他者の死を思う、喪の作業と理解するほうがより自然なのである。

 『草の上の朝食』には《草上の昼食》を描いたマネをモデルニテの体現者としたシャルル・ボードレールが近代の英雄性をみた燕尾服の暗示する「喪」すら遠く反響しているかもしれない。近代(モデルニテ)が燕尾服に身を包んだ「喪」の時代であるならば、それに対応する近代芸術の条件も必然的に「喪」を対象化する作業へと導かれていかざるをえない。例えば、ギュスターヴ・クールベの《オルナンの埋葬》(1849年)は明確に喪を対象化し、無名の人間の死を英雄化しているために、近代が近代たる由縁を示している。翻って、『草の上の朝食』も同様に「喪」を暗示しているために、やや強引にではあるが、近代芸術の抱える不自由な規定を引き受けていると言えるだろう。しかしながら、両者を比較すると、マネやクールベが画面に描かれている対象そのものによって、近代の「喪」を表現したのに対して、保坂は対象ではなく「反復」という方法によって、死の影と「喪」の作業を私たちに想起させる点に異なりが指摘できる。おそらく、『草の上の朝食』が《草上の昼食》ほどスキャンダラスに映らない理由もそのような「喪」の表現が対象から「反復」という方法への移行によって、スキャンダル自体の性質が変容したためだと考えられる。すなわち、目に見える対象から、目に見えない方法へである。

 保坂は近代を規定する一様相、「喪」を対象化しながらも、人々の変わらない「反復」という方法を通して、その規定による不自由さを軽やかに、忍び込ませることに成功する。つまり、科学的でも超科学的でもない、自由なる小説の領域にのみ立ち現れる、家という日常空間における「現実の気分」とは言い換えれば、「反復」という方法によって演出されたスキャンダラスな「喪の作業」であったのである。