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「たかが世界の終わり」

グザヴィエ・ドラン「たかが世界の終わり」を観た。冒頭からいくつかのモティーフが短時間で現れては消えるを繰り返す。機内、帽子を被り、顔を隠しているルイの正体を暴こうとするかのように、子供の手は何度もいたずらを仕掛ける。タクシー内、ルイの背後に窓越しに見えるふたつの風船。ふたつでひとつのモティーフはその他にも現れては消える。深くかぶった、帽子を脱ぎ、ついに正体を明るみに出したのは12年ぶりに、自宅の重い扉を開いた時であった。待ち構える家族の一応の歓迎はすぐさまにその熱り立つ変わり者たちによって崩壊する。サリンジャーのグラース家のように、互いの素直な意思表明が衝突を生むと同時にその素直さは家族への逆説的な愛によって支えられている。むしろ互いの顔と顔が正面衝突を避けながら、顔面の真横を家族の意思表明が駆け抜けていく。この和解なしのどうにもならなさは爽快ですらある。端的に衝突を生むのはそこに実体があるからだ。つまり目に見える家族の存在である。対して、家族の中心にありながら、その不在を表明するのは死んだ父親である。彼はこの作品世界において、全くの不在である。父親の不在を家族の全員が共有しているが、ルイにだけに存在する不在がある。それはかつての実家であり、先週ガンで死んだ彼である。かつての実家は全くの不在であり、彼はルイの夢の中に不明瞭なイメージとして現れて、そして半透明のガラス窓から、陽の落ちた中濃度の世界へと出て行ってしまう。可視的な家族の顔、不透明な彼の顔、そして不可視の父親と実家。見えるものと見えないものの交差の内に、一瞬間、ルイが不透明な夢の中に微睡むのなら、家族の直裁な顔のクローズアップが、すぐさまにその目を覚ませてしまう。仕方がない、ルイは家族に告白し、安らぎ死にゆくことを、微笑、断念せざるをえない。


『たかが世界の終わり』本編映像