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ボケの逆襲(大学一年時のレポート)

ボケの逆襲

 

 

ボケに裏切られ、ツッコミそして僕らが負けるのである。村本の私生活に見られる破天荒というよりか、「クズ」とも呼ばれる、Twitterでしばし炎上を巻き起こす、彼の言動、ファンに手を出す、などのエピソードに翻弄されているのは明らかにツッコミ側である、観客であるところの僕たち自身なのでもある。そして村本はそのことについてよく理解し、「お前らがクズ呼ばわりする自分に翻弄されているお前らのほうがクズだ。」といった趣旨のツイートすらしている。舞台上、私生活でも徹底的に僕らは煽られ、炎上させられ、裏切られるのはクズなツッコミ、僕たちなのである。この村本のボケぶりは、ボケが狂気に限りなく近い、鬼ヶ島などのコント系にツッコミでは制御がつかなくなったボケ=狂気的である点で似てはいる。しかし村本は自制的だ。自制的でなければ、漫才をボケが仕切ることはできないからだ。メタ的に見れば、漫才に限らず、ウーマンラッシュアワーのネタをすべて決めているのはボケの村本自身でもある。彼らのネタの起承転結を計算し、設計している村本こそ、彼らのネタ、そしてそれを見る僕たちという関係の中で指導権をもっている管理者でもあるのだ。

 

最後のツッコミは省略可能になった。フリ→ボケ→ツッコミが一般的な漫才の形式とすれば、ウーマンラッシュアワーの漫才の場合はフリ(フリ1→フリ2)→ボケ→「ツッコミ」という少し特殊な構造をしている。まずフリは最初の村本の提案=フリ1、それに答える中川の発展=フリ2、この受け答えで成立している。この最初のフリはボケかツッコミのどちらか一方が担当することが多い。次に中川のフリ2を裏切るように村本がボケ、笑いは起き、一つのネタが終わる。最後のボケの後の「ツッコミ」はほとんど声に出されない、出てもボケに圧倒される。この漫才では「ツッコミ」は効果を持たず、その役割は形骸化しているために、最後のツッコミは省略可能なのである。このツッコミの省略は漫才だけに限らない。太田省一氏は『社会は笑う』で現行のテレビで多用されるテロップの多くはツッコミの代わりとして機能している、とテロップの現代的な使われ方を指摘している。これまでは番組の出演者のボケに対してはツッコミ役の出演者が言葉を返すという構図をなしていたのに対し、言葉としてのツッコミが省略されつつある。それはツッコミが実質的に不在の中でボケの何でもあり感を助長し、また同時にツッコミの物理的なあり方を薄れつつあることの表れでもある。

 

笑われる者と批判される者が異なるのが、この漫才の面白い点の一つである。それは中川が村本のフリに沿って答えた以降の、村本の裏切りと中川の動揺の展開に顕著である。村本自身がフリをしたのにも関わらず、中川がそれに乗ると、急激に裏切りを働き、正論

 

めいた主張を早口で畳み掛ける。それに対して中川は翻弄されるだけである。なぜなら、村本のその主張が確かに正論であるからだ。文脈的に正しいことを言っているのは中川なのであり、場面的には正しいことを言っているのは村本なのである。僕たちはその二つの別の次元において、笑われる者と批判される者の共存を見る。基礎演習の一連の授業を振り返れば、批判させるべき、教育されるべき者は、素朴な人であり、未開的な人物である。これらはホッブスの優越の理論において劣の側に含まれる者でもある。そして、何かに劣った者、その彼らこそ笑いの対象(笑われる者)として考えられてきたのであるが、ウーマンラッシュアワーのこの漫才の場合は前述したとおりに文脈的に見れば、劣っているために批判されるべき者はボケの村本であり、場面的に切り取り見れば、劣っているために批判されるべき者はツッコミの中川である。

しかしそのような表面上のネタの構造に面白味があるのではない。そうではなく批判されるべき者の区別にこそ、動物的な消費の仕方の特徴であり、なぜ村本がこのような漫才を作ったのかを考える上でも最大の注目点が隠れている。まず前提条件としてボケの村本はブログ、Twitter上で炎上の代表的な被害者であるという点を挙げる。ファンに手を出すやTwitter上でのフォロワーを馬鹿にするようなツイートが原因となり頻繁に彼のアカウントは炎上するのであるが、炎上時の彼の態度は極めて闘争的であり超越的である。火に油を注ぐように、続々と届けられる誹謗中傷のコメントに、またもフォロワーを馬鹿扱い、具体的には根暗やオタク扱い、するような返信をする。ここで一連の炎上、そのほかのTwitterでも炎上のされ方を観察するに、炎上とはTwitter上に関しては文脈の無視から始まり、1場面を切り取り受容し、それに対して大量の人々がコメントをし、瞬間的に大量の人々が連体する現象である。この炎上の構造は、前述のウーマンラッシュアワーの漫才での2人の批判させるべき者の共存の構図と一致する。なぜなら文脈を無視し、場面を切り取り、正論で畳み掛けるボケの村本は炎上を起こす炎上者であり、文脈に沿って、フリを続けるツッコミの中川は被炎上者であるからだ。実際には被炎上者であるボケの村本が自らすべて構成する漫才の中では炎上 そのものの構図を作り、自らに炎上者の役割を与えている。さらにはその村本のボケを見て、僕ら炎上者は笑う。メタ的に村本は炎上者に対して自分たちで自分たちを笑わせている。村本は炎上を体現することで、炎上を起こしている本人=観客、視聴者に自分たちの行為を自分たちで笑わせる。なぜ漫才師がそのネタを作ったのかというメタ的視点を考慮に入れるのならば、この村本の態度はまさにボケの逆襲と呼ぶにふさわしいものだと考える。それと同時に僕たちに対する強い皮肉でもある。

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