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『この世界の片隅に』評。手始め。

映画『この世界の片隅に』は実のところ語るべき部分が多すぎて、どこから手をつけていいのか分からない。が、ひとまず、手近なところか右手を伸ばしてみたい。

タイトルが意味するところに拘泥するのは避けたいが、「片隅」に触れないわけにはいかない。大雑把に言って、その意味は二重に読み取れる。大きくは戦火に置かれた市井の人々(映画全体)。小さくは社会の外部に置かれた人々(すず(ゴッホ)、子供、遊女、、戦災孤児)。実際、空襲のゴッホ描写は何らかのすずのアウトサイダー性を示唆するものだろう。(原作漫画にも、また他のこうの史代作品にも登場する)。

しかし、だからといって、本作は片隅たちを中心にした映画というわけでもないだろう。あえて本作の中心を指摘するとすれば、たんぽぽであり、トンボであり、カブトムシであり、人間の戦争を横目に、ありのままに時を過ごす、自然ではないだろうか。劇中、挟まれる動植物ショットは、人間の生活の脇に置かれた休憩所ではない。むしろ、自然ショットこそ、常にそこにあり、これからもあり続ける、この映画の中心なのである。すずの成長は、過去のすずからの変化もそうだが、後悔を知らない自然の無邪気さと汚れた?人間の対比からこそ感じられるように思う。

片隅の二重性に属しているすずは、主人公としてふさわしい。

 

 

 

 

批評家東浩紀氏は柄谷行人の「風景の発見」を援用する。アニメ特有の欺瞞として背景と人物の分離の自然さを挙げ、その上で『この世界〜』と『君の名は』はアニメの二つの方向をそれぞれ余すところなく示した作品であると評価している。

 

 

 

『この世界〜』をリュミエールによる映画の発明以来の出来事であると、つまり120年に一本の作品であると絶賛したのは、精神科医で批評家の斎藤環氏だ。

忘れることの意味。いいとこ取りはできない。憎き何かを消し去りたい気持ちは、決して忘れてはいけない大切な記憶の忘却と常に引き換えの関係にある。良いことも悪いことも、希望も絶望も一生に忘れ、そして忘れないこと。記憶の器になるとはそのこと。