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桜の樹の下には屍体が埋まっている:フォックスキャッチャー

12時起床。昼夜が逆転しつつある。昼が主人公で夜は何役だろうか。昼の太陽は性欲を干からびさる。太陽の陽は恥の文化を育む。昼には昼の役目があって、同時に夜には夜の役割がある。昼には昼の私がいて、夜には夜の私がいる。互いに抑圧しつつ、互いに発散する。よく言うような月と太陽の関係で考えると、やっぱり月を照らすのは太陽の陽だから、昼が昼夜の主人公であるような気がする。全ては太陽に照らさせる。今のところ人間の世界の中では太陽が主人公のようである。燦然と輝く太陽こそが生命の源でもあるのだ。でもそれは人間の世界の中だけであって、この銀河の外側あるいはこの宇宙の外側に広がる暗闇を想像すれば、太陽すらも一人の脇役に過ぎないことに気付いてしまう。私たちがこの世界と呼ぶの時の、世界とは何か。太陽を脇役に追いやるようなとんでもない世界はいつも私たちを震撼させる。文学はいつも宇宙の外側に広がるような闇を描いてきた。太陽にすら照らすことのできない場所に目を当てることが文学の役割だと思う。安倍晋三のもつ光では到達できない、摩訶不思議な人間世界の暗闇を見つけ出すこと。貧困、虐待、高齢化、移民、障碍者、そして何より一般人健常者とされている人間の中に存在する闇。個人の内面は最大の暗闇でもある。ある個人の内面を曲りなりにも顕在化させようとすること。他人がある人間の内面を見ようとすることも困難を伴うが、それ以上に個人が自分自身の内面に光を当てることは多大なる困難と痛みを伴う。そう思うが、私には実感が伴っていない。個人の内面の掴みきれなさを噛みしめるたびに、気落ちしてしまう。胃腸薬を6錠を喉を通過させると、顔に色が戻ってきた。昼食は生姜焼きとキャベツの炒め物、豆腐のしらす干しのせ、白米、日本茶。極めて質素かつ健康的である。日本茶を二杯飲み干し、自分の部屋に戻る。13時20分。半日の空白を満たさなくてはいけない。といっても埋めるための娯楽は映画しかない。映画館情報を見る。邦画は見る気がしない。アゲイン、マエストロ見たが、映画である必要を感じない出来で、物語として感動するポイントはなかった。邦画を見ると痛い目にある。僕はそこまでは言わないけど1500円の価値があるものをやっぱり見たい。アカデミー賞候補「フォックスキャッチャー」を昭島に観に行くことにした。


映画『フォックスキャッチャー』予告編 - YouTube

ちなみに今後の期待作は「アメリカン・スナイパー」である。クリントイーストウッド監督の最新作。4度に渡ってイラク戦線に加わり合計で160人を射殺し、伝説のスナイパーと呼ばれた男の人生を描いた作品で、全て実話に基いている。160人の中には民間人、女性と子供も多く含まれその戦場の経験から主人公は帰国後に精神を病んでしまう。町山智浩さんによれば、アメリカでは戦場から帰国した兵士の2割がPTSDを発症する。また帰国兵による銃の乱射事件も多発しているらしい。戦争に自国の兵士が参加することで、戦場のみならず、自国における社会不安をも発生させかないということで、つまり戦争に参加するということは、その後のある人の人生を狂わしかねない選択なのである。という訳で「アメリカン・スナイパー」は期待大。


映画『アメリカン・スナイパー』予告編 - YouTube

15時05分からの「フォックス・キャッチャー」は観客は7人。月曜の昼なので、がらがら。アイスカフェを飲みながら、氷をじゃらじゃら回しながら、銃声を聞くたびにビクッとしながら観た。感想はインターステラー、ゴーンガールの方が面白い。セリフや音楽で物語を抑揚をつけることなく、映像全体で表現しようとするので、それは仕方ないのだけど、やはり感動や胸が騒ぐようなことはない。ただ巨額の資金によって雇われたオリンピック金メダリストと支配欲に駆られた愛されない御曹司、そして奪われる最愛なる兄の命。異常なる人間の欲望が目立つことなく映画全体に蔓延する。ウイルスを防ぐことが困難なように、銃を手にした人間の狂気を止めることはできない。愛されないことが何よりの絶望であることを示すこの映画は、本物の狂気だけが持ち合わせる、ある種の不気味さの演出を映像にのみ依拠することで可能にしている。ただ静謐に事は遂行される。その静けさ、透き通った空気は何か超常的な雰囲気を醸し出し、また物語全体が誰かの内面世界のような気さえしてくる。御曹司デュポン家の広大な敷地内は独立戦争の際に何千人もの兵士がアメリカ独立の為に犠牲になった、まさにその場所であるという。長閑な森林には幾千もの屍体が埋まっている。桜の樹の下には屍体が埋まっている!。梶井基次郎の有名なあの冒頭を思い出す。桜の樹には屍体が埋まっている。それも幾千ものだ。その上には深々とした森林と多様多種な鳥たちの鳴き声が響いている。一人の人間の内面そのものを描くのではなく、外面を徹底的に作り上げることで、ある人間の狂気を浮かび上がらせる。幾千の屍体が埋まっている森林に雪が降る。幾千の屍体の上に銃声が鳴り響く。全ての音が止み。鳥はたちまちに飛び去っていく。人間が人間を殺す。また一人この森林に屍体が埋まる。その闇は深い。その闇はデュポン家という家系そのものが持ってしまった十字架的な狂気によってさらに深みを増す。家系からは逃れられない男の愛されたいという欲望と、誰にも明かされることのない何かによって、事件は不気味さを持ちながら、一人の人間は死んでいく。「フォックスキャッチャー」はうまく語られることを拒みながら、ただそこに巨大な狂気な隠し持っていることだけを私たちに示し、人間の最大級の好奇心を擽る。その意味では過大評価をしがちな映画なのかもしれないけれど、それも一つの作品の魅力なのだから、仕方ない。その後、本屋で立ち読み。文芸誌すばる、早稲田文学川上未映子、批評理論入門が目につくも購入はせず、福生に帰宅。

 

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