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中島みゆきかと思ったら、「あと1センチの恋」でした。

中島みゆき 誤配 ほしいものが、ほしいわ 風の歌を聴け なんとなく、クリスタル

中島みゆきの縁会のライブ映像を映画館で観てくるはずでした。


中島みゆき「縁会2012~3 劇場版」予告編 - YouTube

チケットを買うまでは、特別料金2500円を払ったまではよかった。7番シアターに入って、B8席に座って、予告は終わった後に、中島みゆきが始まらない。若い男と愛嬌のある女が交わってから、過去の回想へと入っていった、謎の海外恋物語は、おそらく「あと1センチの恋」。レイトショーで本来1100円のところ、僕は2500円払っている。出たいけれど、出れない。でもよくよく考えたら、そんなに僕の優先順位の中に、中島みゆきと他の映画に差はなかった。映画的体験というと、いいが、どちらかと言えば、映画的休息を求めていたのであって、どんな映画でもよかったのかもしれない。どこかの公開対談会で、ある批評家が言っていた通りに、(いや僕の誤解かもしれないけど)僕らは導かれることを欲しておらず、自分の好きな物だけを消費する。しかしそこには必ず誤配が生じて、新しい欲望を人は発見していく。新しい欲望は誤配によって生じるとすれば、この場合、僕が映画館に行くことが誤配の原因になっている。確かに、蔦屋で借りてしまったら、その可能性は限りなく0に近づいてしまう。なるほど、僕は誤配のために映画館に脚を運ぶ。確かに納得できる。でも、実感としては少し違う気もする。まず、映画館に行くのは、見たい映画があるから行くのであって、「誤配のために」に行くのではない。これはある時代まではそうだったし、今も一部はそうだろう。でも今は、後者の「誤配のために」行く意識が強くなってきていると思う。「誤配の自己目的化」。誰もが誤配を求めている。どこかへ導かれることを求めている。でも自分の知らない所には行きたくはない。そんな意識がなんとなくの心の閉塞感と相まっているんじゃないかな。それは「ほしいものが、ほしいわ」的な時代の感性とも異なるような気がする。


ほしいものがほしいわ/糸井重里 | M25 -emunigo -

風の歌を聴け」や「なんとなく、クリスタル」のようなモノが取り替え可能になっていく感性ではなくて、もう一度モノの個別の価値を見出しつつ、適度に誤配されたい、と言った感じ。まだ僕も全然掴めていないので、「ほしいものが、ほしいわ的感性2.0」とはどんなものなのか考えてみたい。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

 

 

何の話だったかというと、中島みゆきを見損なったという話。そしてただ特別料金の2500円の出費だけに悔やんだという話。他の観客の倍払っているのだから、倍の価値を見出さなくては。そう思うことにしたけど、普通の映画でした。一言で言えば、「欲しいものならどんな犠牲をしても得ればいい!」。子供を産んでもいいし、離婚をしてもいい、それでも愛したい人がいるのなら、すべては投げ打てばいいのさ。モノに対する関心ではなくて、これは単純に人間に対する関心の話。モノには誤配を求めつつ、人間関係には愛したい人は確固としている。最後に至るまでに、色々と出てくる誤配的キャラクターに惑わされずに、最後にキスをしろ。そう考えると、人間関係においては誤配に負けるな。的映画だと思うけど、そもそも二人の出会い自体が偶然であり、誤配でもあり、必然でもある。モノと人の出会いと、人と人の出会いは同じなのか、異なるのか。2500円分を取り返すために、いろいろ考えました。


映画『あと1センチの恋』予告編 - YouTube