よわいめ|ヨワイメ

同時代カルチャーをレビューするブログ

あのカーテンの向こう側———黒沢清と半透明の美学

 黒沢清は彼自身が最後のホラー映画と言った『回路』以降も、美術批評家の椹木野衣が「映画であるだけで充分怖い」と評するほどに、映画全体にホラー的要素を潜伏させたフィルモグラフィを築いてきた。黒沢自身はホラー映画の特質について、「監督自身の死に対する哲学が問われることになる」とあるインタビューで述べている。では黒沢の「死の哲学」とは何か。本稿はその意味について哲学的、あるいは因果律的な物語内から抽出する方法をとらず、あくまでも視覚的なイメージに現れる美学的な位相において、思考することを目的としている。結論を先まわりすれば、そのイメージとは「半透明」と呼ぶべきものである。まずは、初めにその前提となる「透明」とは何か問うてみよう。

・透明/半透明の美学
 鏡とは確かに映画的な装置である。鏡面における世界の反射がもたらす内省的状態と囚われ、そして脱出のイメージは、スクリーンに投射された映画そのものの構造を二重化し、鏡を見る人物=観客という入れ子状の映画的空間を生成する。ギリシャ神話においてナルキッソスが水面に美しき容貌を発見したように何かを偽りなく反射するという「透明性の神話」は登場人物を魅了し、観客を虜にする。このような「透明性の神話」を可能にするガラスというメディウムを通して、窓向うに透かし見る景色を厳密に捉える遠近法的な絵画形式が、近代的な主観-客観モデルを前提として生まれたことは周知の通りであろう。鏡-水面-(窓)ガラス。これらの「透明性の神話」を貫通する不可視のメディウムは、映画より以前に西洋美術の伝統的で支配的な思考-絵画モデルであった。
 美術史家の岡田温司はそのような近代絵画史の根底にある神話を脱構築する視座をその名の通り、『半透明の美学』という著書において提起している。岡田は再現表象的なルネサンスと超越論的表象的なモダニズムクレメント・グリーンバーグ)の対について、前者から後者への形式的なパラダイムシフトを認めながらも、ともに記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の幸福な結合を可能にするメディウムの透明性を志向する点で共通性を見出している。そして、極論と前置きした上で、「透明性とは、カメラ・オブスクラの視覚モデルが育んできた、西洋のいわばユートピアなのだ」とまで述べている。そのような強力な視覚モデルに対して、岡田は透明でも、あるいは不可視的な不透明でもない、「半透明性」を西洋美術史の圏域にありながら、周縁的な扱いをされてきた、灰色、埃、ヴェールといった、白と黒の中間色の領域において救い出そうとする。この「半透明の美学」の理路は、本稿の目的である映画監督、黒沢清の一貫した美学を明らかにすることに直結する。以降は、黒沢の具体的な作品に「半透明性」に関するモティーフを指摘し、その中にホラー映画における「死の哲学」を光明の元に指し示したいと思う。

a.カーテンとサイドウィンドウ

 黒澤明の「雨」が観客に反復的な情動を喚起したように、黒沢清の映画も情動を準備するいくつかの既視感に溢れている。その中でも、冒頭のシーンがやはり印象的である。精神科医に女性がカウンセリングを受ける室内(『CURE』)、風が舞い込む佐々木の自宅内(『トウキョウソナタ』)、ピアノレッスンを行うモノクロの室内(『岸辺の旅』)、無人の取り調べ室内(『クリーピー』)など多くの作品冒頭で、(時に開放された)窓ガラスの向こうの景色を半透明のカーテン越しに眺めるシーンが挿入されている。物語の始まりを告げるかのように、不明瞭な外部世界からの風が室内(映画内)に半ば犯罪の匂いを醸しつつ侵入していく。黒沢映画の魅力は観客がその始めからして、殺人現場に居合わせてしまった目撃者のように、本人の意図に関係なく、自動機械のように事件に巻き込まれていってしまうスリルにある。巻き込まれてしまっては最後、トビー・フーパー監督作『マングラー』のプレス機のように映画という死に至る緩やかな自動機械に食いつぶされてしまうのだ。その引き金が冒頭の半透明の(揺動する)カーテンである。黒沢映画にとって「風」もそれ自体で重要な意味をもつモティーフであるが、ここでは「半透明性」に絞って議論を進めよう。同じように「半透明性」を発見できるのがサイドウィンドウである。『CURE』や『リアル〜完全なる首長竜の日〜』に顕著に見られるのは自動車の運転シーンであるが、サイドウィンドウの向こう側に映る景色は「スクリーン・プロセス」によって撮影されているために、何かのイメージを想起させながらも、具体化には至らない。不明瞭な窓ガラスもまた半透明性を宿しているのだ。黒沢映画における「半透明」の境界面は、外部空間から遮断された閉鎖的な内部空間のインターフェイスとして描かれる。時にそれは窓際のカーテンに、あるいはサイドウィンドウに投影される。とすれば、解決すべき問いは、黒沢が外部と内部空間を遮断した上で、その境界面であるインターフェイスになぜ半透明を用いるのか、ということになるだろう。

 では、そのような内と外を「半透明性のメディウム」で取り結ぶ必然性はどこにあるのか。ここで、黒沢のホラーに対する考え方を再度確認しておこう。黒沢はホラー映画のジャンルを独自に「怪奇」「恐怖」「幻想」の三つに細分化する。それらを「死の世界」との関係性の観点から「怪奇」と「恐怖」が生と死の境界線を設けた上で、死の世界の到来に怯えて生きるのが「恐怖」であり、その間を行き来して生きるのが「怪奇」、対して、そもそも生と死の境界線を設けず、両者が融解し、混ざり合い生きるのが「幻想」としている。したがって、「怪奇」と「幻想」の区別は限りなく曖昧になるのだが、例えば、近作『岸辺の旅』や最新作『散歩する侵略者』では人間と本来空間/時間的に超越的な存在者=幽霊/宇宙人が遭遇し、互いの領分を侵食し合う世界観に貫かれていたように、黒沢映画の基本スタンスは「怪奇」と「幻想」に近い。ただし、人間と超越者が自由に互いの世界を行き来できるかといえば、そうではない。多くの場合、幽霊や宇宙人は行き来できるが、人間は生の世界の外に出ることはできない。そのような移動の非対称性があるのだ。したがって、黒沢映画をホラー映画と見立てるのなら、「怪奇」に近いが、しかし、移動には非対称性があるといった布置になるだろう。このような移動の非対称性はこう言い換えてもいい。人間の徹底した受動性(パトス)と。

 岡田は『半透明の美学』において、古代ギリシャにまで遡り、アリストテレスの哲学に「半透明」の源泉を見ている。従来「透明なもの」と訳されてきた「ディアファネース」という概念に、「半透明」あるいは「透明性のさまざまな度合い」という意味を汲み出す。すなわちアリストテレスによれば、「ディアファネース」とは無条件な意味で「それ自体としてみられる」=色とは異なり、それは「見えるものそれ自体なのではなく、光と見えるものとのあいだにあって、見えることを可能にしているもの」なのである。あるいは、アリストテレスにおける現実態と可能態を結ぶ「無媒介性の媒介」というパラドキシカルな言い方もできるだろう。

「対象は「感覚器官に直接接触して感覚を生み出すわけではなく、まず[……]中間の媒体が動かされ、そしてこののちゅ間の媒体によってそれぞれの感覚器官も動かされる」のである。このようにアリストテレスは、徹底して、視覚を「感覚する能力が何らかの作用を受けること(パスケイン)」として、すなわち一種の「パトス」としてとらえようとする」。(岡田温司『半透明の美学』岩波書店、2010年、35頁)

 言い換えれば、中間の媒体である「ディアファネース」とは純粋な受容性、受動的な感受性のことなのである。それは言うまでもなく、対象を把握し認知する能動性を担保する透明性を介した視覚モデルとは対照的である。つまり、対象に棲みつく埃や纏われるヴエールが意味する「半透明の美学」とは透明性が能動的に取り結んでいた内と外の関係における非対称性の逆転にこそあるのだ。岡田は半透明の持つ対象に対する作家主体の受動性の観点において、西洋美術史の古層からゲハルト・リヒター、ウジェーヌ・ドラクロワパウル・クレーフランシス・ベーコン、アルベルト・ジャコメッティ、ジョルジョ・モランディ、マルセル・デュシャンアナクロニスティックに再発掘する。このような芸術家の営為と美術史の文脈を踏まえたとき、黒沢清が「半透明」のモティーフを反復する意味がおのずと明らかになってくるだろう。つまり、前述の通り、黒沢のホラー映画観を貫く思考は関係性の非対称性にあったからである。一般的にそれは、映画の物語展開にしたがって登場人物同士の関係のうちに見出されるものであったのだが、黒沢映画の場合、冒頭の窓ガラスとカーテンや車のサイドウィンドウに見られるような、視覚的なイメージにおいて、すでにその「非対称性」は準備されていたのである。

b.黒沢的「半透明の美学」

 ただし、半透明であれば、すべてがそうであるわけではない。黒沢的な「半透明」の質について最後に考える必要があるだろう。ここで一つの美術作品を見てみたい。ダン・グラハム(1942-)というNY在住の現代アーティストの作品「Wood Grid Crossing Two-way Mirror」である。最近ではファッションブランド「セリーヌ」のファッションショーでのコラボで話題になったグラハムは、美術と建築を横断するようなハーフミラーを用いた作品、例えば、直島にある「平面によって二分割された円筒」もその典型であるが、通称「パヴィリオン彫刻」を1976年のヴィネツィア・ビエンナーレから継続的に制作している。

 ハーフミラーというまさに半鏡面的=半透明のメディウムによって、作品に近寄り、立ち入った鑑賞者=体験者は、思いもよらぬ位置に他者の顔を、あるいは自身の顔を発見することになる。理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオーはグラハムの作品に触れて、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスが中心的に扱った、ある主体と集団的な顔の対面=responsibility(応答可能性=責任)がもたらす、鑑賞者相互の関係性の契機を自身の提唱する「関係性の美学」の観点から批評している。ここではブリオーがやや楽天的に鑑賞者の能動性を前提としているようにも見えるが、より厳密には鑑賞者の経験は、自分自身が能動的に振舞おうとすればするほど、自己管理下をすり抜けた期待はずれの場所に「顔」を感受しなければならないという、能動的な行為によって、むしろ受動的に対象に出会うという特異なものなのである。黒沢映画における「半透明」との共通性も岡田が指摘したような、この「受動性」に見出すことができる。能動的な行為による受動的な世界との遭遇という経験には、役所広司のあらゆる運動を想起してもいいだろう。それゆえに、グラハムのハーフミラーのパヴィリオン彫刻と黒沢映画における各モティーフは共通して美学的な「半透明性」を持っていることは確かであろう。

 しかし、他方で、黒沢的な「半透明」の非対称性は、単に経験者である主体の現前的な受動性に留まるものではないこともまた確かである。というのも、黒沢映画において、主体とその外部、もっと単純に半透明によってインターフェイスされる内部と外部が互いに同じ時間軸を共有するグラハム作品のような現前的な関係性は成立していないからだ。例えば、それは多くの場合、生者と死者(幽霊)、あるいは『リアル』の場合はある人間の意識と無意識といった、二項を媒介している。『回路』についてのインタビューに答える、黒沢自身によれば、「幽霊というのは永遠の象徴かもしれない」、「幽霊を見た人間は死なないどころか永遠に生きるはめになる」。黒沢は死と対面した人間の恐怖とは、その有限的な生の時間に甘んじる人間を「永遠に固定する」という効果によって喚起されるというのだ。つまり、黒沢映画がグラハムのパヴィリオン彫刻と異なる点は、内と外の現前的ではない時間概念の対比による非対称性にあるのだ。一方で、半透明のインターフェイスの内側の人間は有限の時間に生きている。他方で、死者=幽霊は無限の時間(=非時間)に生きている。だからこそ、生者は生きたまま永続化されることに恐怖を覚えるのだ。生者と死者は、同居しながら、時間的な非対称の世界を生きている。

 これは黒沢の「生と死の関係」に対する思考そのものでもある。つまり、黒沢にとって「死」とは生きている私たちがそれ(=外部)に向かって、能動的に行為し続けることで、受動的にのみ感受可能な世界であり、また「有限」とは全く異なる時間概念である「無限」に区切られた世界なのである。『リアル』における、意識と無意識もそれぞれアリストテレスの現実態と可能態に重ね合わせれば、生と死同様に、そのインターフェイスに「半透明」のサイドウィンドウが挿入される必然性も説明できるだろう。すなわち、生と死、意識と無意識といった時間的な非対称性をもつ二項を媒介する、それ自体としては受動的な「半透明性」こそ、黒沢の「死の哲学」を支える美学なのである。

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(批評再生塾初出)

<ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校>グループC『完全なる仮説』展レビュー

ラディカルな仮説のために

 

 新芸術校一期弓指寛治、二期磯村暖。二人は、別々の仕方で、世界への鋭敏さを兼ね備えていた。思えば、当然のように、鑑賞者はどこかで、芸術作品に日常の平準化した世界認識に対する先制第一撃を期待している。仮説とはまさにそのための手段ではないだろうか。

 「完全なる仮説」は仮説である限りにおいて、事前的であるがゆえに、有名無実な構成物にもなるだろうし、反対に、それゆえにモラトリアムな留保の元に、ラディカルな自己/社会変革的な試みにもなるだろう。鋭敏さとは仮説の条件なのである。はっきり述べれば、本展作家のうち、前者は三上悠里、ヤウンクル関根、田辺結佳、鷲尾蓉子、後者はモリエミ、スズキナルヒロに当てはまる。以下では、その理由について述べていく。

 三上のクリアにデザイン化された憲法の質量をモービル、胡麻、水量によって相対的に示す中性的な展示、ヤウンクルのギリシャの砂浜に雪崩れ込む難民たちを思わせる、鳥取砂丘に集うポケモンGOユーザーの写真と難民の入国を防ぐ(と同時に鑑賞者の進行を阻む)かのように、銃を備えた黒ずくめのハンター、そして、その先に配置された田辺の家を失った人々の一時的な住処である仮設的なテント。これらの興味深い動線設計は、現憲法の自明性や難民、仮設住宅を連想させることで、図らずもそれぞれの政治性を浮上させているのだが、この政治性をどう受け止めるべきだろうか。残念ながら、3作家にはこの政治性を意図せざるものとして受け流す、ナイーブさ(鈍臭さ)を感じえない。

 もちろん、スマホ越し/レンズ越しに砂丘を眺めるバラバラの被写体と単一の作家であるヤウンクルの写真は両者ともにコミュニティへの参加のできなさを二重写しにするだろうし、熊本地震の経験から着想された田辺作品は、潔癖症的なエゴイズム=ミニマリズムの徹底が亀という不純物によってなし崩される展開によって、災害ユーピア/ミニマリズムのテンポラリーさ=仮設的であることの臨界線を仮説的に示している点で興味深い。欲を言えば、水槽に亀が入っていれば、地球に天変地異をもたらす超然的存在者として神話上に描かれる「亀」へと補助線を引くこともできただろう。その上でもっと「制作」への自覚とともに「展示」への自覚化を図りたい。

  鷲尾作品は新宿中村屋サロンの共同体の形に新芸術校(=カオスラウンジ)への情念の通底を批評的に接続するテキスト、絵画、著作、鷲尾自身による解説を含めたリサーチを前提とした演劇的なインスタレーションである。私は、その解説を聞きながら、一つの疑問を感じていた。「対象物と作家自身がどのような関係にあるのか。なぜ、作家は本来的に無関係であるはずの対象について語り、作品化する権利を持つのか、なぜ、あなたが?」。例えば、その応答を留保したままで、その権利を作家の「情念」等に求めることは以ての外ではないだろうか。なぜ、語りうるのか。その必然性を作品内に挿入する必要があるだろう。本作にはそれが端的に不十分であった。なお、作家本人による解説方法の工夫も求めたい。

  世界への鋭敏さ、それは言い換えれば、自作品が発する世界観に作家本人が自覚的であるという意味である。モリエミの場合には、その点、自覚的でないことが否めないものの、リンゴをモティーフとした文字、絵、写真、囲碁板上のオブジェは互いに鑑賞者の視線を誘導し、不断に生成変化するエロスを喚起する魅力を感じた。

 そして本展において、唯一、鋭敏な感覚=エロスを自覚し、展示空間に反映させた作家がスズキである。同じく自画像的である友杉宣大(グループA)の猫のようにキャラクター化された人物の強い黒線はベルナール・ビュッフェ、色彩対比は萬鉄五郎、叙情性はマルク・シャガールの夫婦像、静物画は形而上絵画やシュルレアリスムを思わせる。彼がステイトメントに記す「青春」からにじみ出るエロスの臭気は、短パンというモティーフに集約できるかもしれない。作家本人が下半身にまとった短パンと、絵画内、短パンを穿き、向かい合い煙草をふかす二人。短パンの気恥ずかしさと、運命の逆らえなさに感知する、二人の吐息が、今に伝わってくるほどの魅惑的な人物像=自画像である。

 しかし、それにしても、仮説でさえ、臆病な世界とは、なんと退屈だろうか。仮説とはもっとラディカルであるはずだ。芸術家には、現実に直面しながらも、それでもなおも「仮説」を立てつづけられる存在者でいてほしいと思う。

21世紀の映像は記憶能力を必要としない—田中功起「Grace」にみる反復とリアルタイム性について—

 21世紀における、インターネットの普及とモバイル化を通した全地球的な情報発信/受信のネットワーク化は、リアルタイム性に対する私達の欲望を常時的に駆動させている。具体的に芸術の領域においては、作家と作品の各主体性がリアルタイムという限定的な時制のうちに融解し、観客との明確な区別のし難い状況を生んでいる。映画館での受動的鑑賞が古典的な観客モデルだとすれば、それに代わる、あるいは無効化する、ポスト観客の発明は、作品と作家、観客が互いに溶け合い、同一化するリアルタイム性を前提としなければならないだろう。リアルタイム性とポスト観客の発明に関する思考の手始めとして、「観客」参加型アートと一般的に呼ばれるようになった作家と観客、美術と社会を横断する理論的枠組みから分析していきたい。

 「観客」参加型アートと言われて久しい、昨今の美術動向において、作品と観客の関係性の再編成に関する理論的枠組みが、日本国内でも、例えば『地域アート――美学/制度/日本』、『人工地獄』などの出版に象徴されるように一つの熱点となっている。遡れば、美術批評家ニコラ・ブリオーの著書『関係性の美学』(1998年)に端を発する関係性の美学、あるいはリレーショナルアートと呼ばれる理論への注目である。ブリオーの言葉を借りれば、それは「美術の理論的地平を独自性や個人的な象徴空間という主張ではなく、人間相互のインタラクションとその社会的な文脈に置くもの」(Nicolas Bourriaud,Relational Aesthetics, les presses du réel, 1998, p.14)である。言い換えれば、作品の内容や形式ではなく、1990年代後半に広範化した、作品の制作過程に観客が参与する「関係性」そのものを重視する作品群に対する分析理論である。ブリオー自身が挙げる具体的な作家名は多岐に渡るものの、広義にはその意味を「観客が「参与」する状態/過程=作品」と定義して良いだろう。

 では、「参与」する観客とはどのような主体だろうか。「関係性の美学」領域では、「参与」に関して、ParticipationEngagementのような、どちらもフランス哲学由来の二つのタームが使用される。例えば、前者はジャン・リュック・ナンシーの「パルタージュ」、後者はジャン=ポール・サルトルの「アンガージュマン」の概念へと直結している。カトリックのミサに際して、イエス・キリストの身体と血を意味するパンとワインを参加者で分け合うことで、信者同士の共同性を発生させること。つまり、ある主体の共同体への包摂を生み出す参与としての「分有」=パルタージュと、主体の政治的抵抗としての参与=アンガージュマン。二つはそれぞれ、別の観客像を想定する実作品に適応されているが、それらを束ねる中心的な思考は観客を作家-観客へと複数に断片化する主体像に求めることができるだろう。ブリオーの「関係性の美学」を批判的に継承した美術批評家クレア・ビショップがインスタレーションに「参与」する観客をfragmental(断片的な)と形容していることは示唆的である。ビショップは複数の観客=主体が、作品空間に入り込むことで行為主体となると同時に、それを眺める観察主体にもなるという、フラグメンタルな主体性を確保するインスタレーションの構造に、小規模に組織される集団による社会/政治参画の契機を見ている。ただし、ここには1968年の五月革命に象徴されるフランスの知識人の中で世代的に共有される(左翼)の急進的なイデオロギーを前提とした、社会/政治的な領域へと参与していく主体の創設という、ビショップの先見的な理想主義を垣間見ることができるだろう。したがって、それゆえに統合的な主体としての観客ではない、断片的な主体という発想は、魅力的ではあるものの、やはり理念先行型のユートピアの域をいまだ出ないことが否めない。

 おそらく、そうした断片化した主体としての観客は、最も現実的には、旧東ドイツ出身の美術批評家ボリス・グロイスが鋭く指摘するように、美術館の別の場所で立ち現れていると考えられる。グロイスは論文「イメージからイメージファイルへ、そして再生」(“From Image to Image File”, 2006)において、美術館での不動のイメージ(絵画や彫刻)を運動する鑑賞と映画館で運動するイメージを不動の観客を対比させた上で、そのどちらも成立しないモデルとして、美術館での映像作品の鑑賞を挙げている。彼によれば、「ヴィデオ・インスタレーションの美的価値は、主として、映像が潜在的にもっている不可視性を明瞭に主題化することにある」(ボリス・グロイス『アート・パワー』石田圭子他訳、現代企画室、146頁)。

 どういうことか。有限の時間的な全体性を持った映像(動くイメージ)を美術館の観客はその場に足を止め、すべて見ることはせず、中途に他の展示作品と合わせて見回るために、観客は断片的にしか映像を鑑賞することができず、その全体性は不可視のままに置かれることになるということだ。「来場者は潜在的に、同じヴィデオ作品の別の場面に遭遇する。これはつまり、見るたびごとに作品が異なっているということである。そして同時に、作品が部分的に観者の視線を逃れているということであり、また作品自体が不可視にされていると言うことなのである」(同書、147頁)。このようにグロイスは分析し、その否定的媒介によってのみ全体性を想像することの主題化こそが美術館の映像作品だけが持つ特権的な特徴であると指摘している。

 映画館での全体性を受動的に鑑賞する古典的観客モデルとグロイスの指摘する「美術館での断片化を否定的媒介として、全体の不可視性を認識する鑑賞モデル」の比較は、その間に存在する決定的な差異からだけでも新しい観客像を提起することはできるのかもしれない。つまり、映像を前にして、断片化する美術館の観客である。

 

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 美術館における映像作品の原理的な構造に対して、グロイスの指摘する「否定的媒介」とは異なる解決策を提出した映像作品が、日本人アーティスト、田中功起が21世紀の最初の年に発表した「Grace」(2001年)に代表される初期作品群である。「Grace」とは教室の床の上でバスケットボールがバウンドを繰り返すだけの映像作品であり、作家自身はあるインタビューにおいて、その制作動機を以下のように振り返っている。

「ぼくはもともと美術オタクなので、どうしても知っているものの影響を受けちゃう。どうしても似ちゃうわけです。この状況ってたぶんものづくりに関わるひとだったらだれでも経験があると思うのですが、まさに「出口なし」でした。ぼくはどこにも行けないし、なにもないし、なにもできないというふうに思っていて、とにかくもうどうしたらいいのかわからなかった。(中略)もうひとつは毎日の生活に関係することです。いま思えば贅沢な話ですがとにかく日々の生活がものすごく退屈だったのです。単調だったんですね」(http://www.tokyo-source.com/interview.php?ts=6

 「Grace」に代表されるループ作品を生み出した二つの状態、美術史の文脈的な「出口なし」状態と田中本人も口にする、宮台真司の言葉を借りるなら「終わりなき日常」的な状態は、前者は現代アーティストとしての行き詰まり、後者は90年代後半の閉塞感を言い換えた言葉のように素朴に理解できる。しかし、前述したように、筆者が本作に別の解決策、別の観客モデルの提起を見るのは、二つの動機ではなく、即物的に短い尺でのループという編集方法においてである。作品の前にほんの数秒立ち止まる、いや通りすがるだけであっても、バスケットボールのバウンドの繰り返しの速度には追いつけず、反復を目にすることに、あるいはそれ以外を目にすることはない。どんな観客も映像におけるバウンドの反復の不変性を目にすることになるのだ。

 ここで明らかとなるのはグロイスがやはり全体性の確保を前提としたモダニズム的な映像理解に依拠しており、その圏域では、「Grace」のように短い尺で反復する映像はおそらく想定されていないということだ。つまり、正確に言えば、古典的な映画館モデルも、また全体を不可視化する美術館モデルも、いずれも全体性を志向する意志の(不)可能性を観客に要請したのに対して、田中の「Grace」では、初めから全体/断片モデルを放棄し、現在性のうちに全体=断片の等式が成立してしまうために、そこで想定される観客は、断片同士を記憶し、全体性を仮構する必要のない主体、つまり記憶能力を持たない者であるということだ。

 もちろん、記憶喪失や忘却を主人公に試練として課すことは殊、映画においては伝統的な物語手法であるだろう。実際にそのような映画や映像作品は無数に存在している。例えば、代表的にクリストファー・ノーラン監督作、「Grace」の一年前、20世紀最後の年に公開された「メメント」の主人公とはまさにそのような主体であった。本作において物語を駆動させる原理は記憶の忘却に抵抗する主人公の意志にあったことが重要である(メメント=忘れることなかれ!)。常に断片化する記憶の魔力に取り憑かれていると言ってもいい主人公の持つ脅迫的ですらある意志の有無において、「Grace」とは本質的に別物であることを明示している。というのも、記憶か忘却かという二項対立の前提となる、記憶能力そのものが「Grace」の観客においては必要とされていないからだ。したがって、両者の差異とは前者が映画、後者が映像作品であるために生じる、物語性の有無といった単純なものではなく、想定される観客に対するイメージの根本的な差異なのである。

 続けて、「メメント」とは決定的に異なるような「Grace」の観客が目にするものを詳細に見るならば、バスケットボールがバウンドして元の位置に戻ってくるまでの一秒に満たない現在という時間の単位がエンドレスに反復されていくために、本来、記憶を可能にするはずの過去と未来という時制を始めから失っていることに気づく。つまり、観客は常時的にリアルタイム性のうちに置かれているのだ。例えば、その観点からすれば、タイの映像作家アピチャッポン・ウィーラーセクタンも反復ではないものの、現在性の引き伸ばしという点で、その試みは田中のループ映像とパラレルな関係にあると言えるだろう。現在性=リアルタイム性は反復するにせよ、極度に引き伸ばされるにせよ、観客の記憶能力への期待を限りなくゼロに見積もることで、作品化されるのである。現在性に埋め込まれた記憶を持たない主体、あるいは必要としない観客の誕生。これがリアルタイム性のうちに、断片と全体を連結させる記憶能力を必要としないポスト観客の発明である。

 最後に、このようなポスト観客を前にしては、今後、記憶喪失という映画/映像的な物語手法は「記憶」の現代的な意味をめぐって、根本的な再考を強いられることになるのかもしれない。

(批評再生塾初出)