読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

山田正亮展に向けて。

f:id:kouminami:20161218210545p:plain

東京国立近代美術館で開催中の山田正亮展のために、参考図書として、『ART TRACE PRESS』 2012年 2月号 を購入し、松浦寿夫氏の小論を読んだ。

 

ART TRACE PRESS〈02〉

ART TRACE PRESS〈02〉

 

 

超訳のようにも思えるが、氏は山田の初期、静物画から抽象へ、そしてストライプへ至る過程を、画面内の机面とタブローの一致というジャンプによって説明する。机面(土台)とタブロー、机面と静物の無関係化は氏がシャルダンセザンヌを論ずる際に援用するロジックであるが、その変奏が山田読解においてもなされているのだ。

f:id:kouminami:20161218190037j:plain《Still Life no.64》1953年

f:id:kouminami:20161218190045j:plain 《workB-136》 1950年代後半

f:id:kouminami:20161218191617j:plain《Work C.73》1960年

その他に小論内において、興味深い指摘はキュビスムモンドリアン抽象絵画を直結することはできないというものだ。極限的な分析キュビスム段階でさえも、やはりその対象は絵画外の現実であり、その解体にある。モンドリアンの場合も、建築的な図面との具体的な一対一の関係がある。つまり両者から直接的に抽象主義が導出されるとは言い難いのだ。またコルビュジェが言う建築的な「直交性」が絵画、それも静物画に適用されるときに、山田の静物画から抽象?絵画への変遷が初めて理解されるとともに、キュビスムの影響下にある孤高の画家山田正亮というイメージが更新されうるのだ。

f:id:kouminami:20161218191525j:plain Still Life Filled with Space, 1924

ごくごく短くではあるが、モランディの名にも触れられている。山田のストライプとモランディの静物画はその反復性の点で類似しているし、かつ、山田はモランディの影響を口にしている。(キュビスムには一言も言及しないのにも関わらず)個別モランディに関しては彼の探求領域がモノとモノとの隣接性、あるいは限りなく接近しては反発しあう力学的関係そのものであったとひとまずは言えるのものの、一方で1940年代静物画の輪郭付近に見られる下地と絵の具の透過性や晩年の水彩画の皮膜性には虚実の反転であり、さらにはセザンヌ以降の問題系、つまり図と地の反転現象が読み取れなくもないように思う。いずれにせよ、山田とモランディの作品上の関係性については、今回の展覧会に合わせて出版された『絵画との契約 山田正亮再考』に一部触れられていたので、後ほど詳しく確認するつもりである。

  

絵画との契約―山田正亮再考 (水声文庫)

絵画との契約―山田正亮再考 (水声文庫)

 

 

 

排除アート?

f:id:kouminami:20161217025011p:plain

最近批判されがちの排除アートだけど、路上生活者やアーティストは常にそのような公権力を笑い飛ばし逆利用するアイデアを提出することが仕事であったはずなので、それを排除アートなんてけしからんと頑固に主張してる人の方がぼくには怖かったりする。石のつぶつぶで足裏マッサージすればいい。

それに排除アートなんて言い出したら、そもそも、この街が、この社会がある人々を排除している訳だから、むしろ、私たちが普段ない事にしている誰かに対する排外主義が、あの街角の排除アートに極端化して現れていると考えるといいのかもしれない。その意味で、排除アートとは市民の似絵なのである。

國學院 スプツニ子! 実況感想 12/16 

f:id:kouminami:20161217023435p:plain